2018年2月24日土曜日

文献紹介:中山治一『史学概論』

 今回紹介するのは中山治一『史学概論』です。この本は30年以上前に出版されたものですが、「歴史とは何であるか」ということを歴史叙述や史学に関する個別的事実に即して考えるために有益な本となりましょう。要するに、史学史的事実に即して史学の本質を考えるという本なのです。

 この本は序章と終章を除いて全4章から構成されていて、まず序章で「史」の定義、第1~3章で前近代の歴史叙述が順に整理されています。前近代の歴史叙述は中国、日本、西洋の順に例示・詳述され、4章でランケ流近代歴史学の確立、第5章で19世紀歴史学の変容について書かれています。では、その内容を紹介していきましょう。

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「史」の意味とその認識
  「歴史」という語は意外と新しいものです。歴史叙述で「歴史」という語が明示的に使用されたのは、明代末万暦年間(1573-1619)に袁黄という人が書いた『歴史網鑑補』が最初だといわれています。これは江戸時代、将軍家綱の時代に和訳され、17世紀後半から「歴史」という語が日本でも使用されるようになります。明治時代には新設された文部省が「歴史」を科目化したため、近代化の過程で「歴史」という語は中国へと逆輸入されるという面白い経緯を辿っています。

 「歴史」という語については、「歴」よりも「史」という字の持つ意味が大事です。本来、「歴」とは物事の経過のことを指しますが、「歴史」という語に組み込まれて初めて「経過した事実の記録」という意味が生まれます。「史」は殷墟の甲骨文字にも見られ、「記録を司る役人」という意味を持っていました。この役人は記録者だけではなく教育者の役割も担いました。日本ではこうした「史」のことを「フヒト」と呼びました。「史」は記録や文書のことも指すようにもなっていました。

 西洋の場合は、ギリシア語とラテン語の「ヒストリア」が語源です。英語の「ヒストリー」もここから来ています。「ヒストリア」は元来「探求して得られた知識」のことを意味します。語源の異なる中世高地ドイツ語の「ゲシート」、すなわち標準ドイツ語の「ゲシヒテ」も「歴史」という意味で和訳されますが、これはもともと「出来事」を指しました。ですが起源は異なるにせよ、いずれの語も「出来事」「出来事についての知識」「知識を書き記した書物」といったことを示すようになりました。

 ここで重要になってくるのは語源の違いではなく、「史」という言葉が含意する「出来事」と認識です。すなわち、「史」が客観的に起こった「出来事」そのものと、「出来事」を主観的に捉えた知識の双方を含んでいるということです。これは、自然科学が科学と自然を別物と捉え、認識と対象を分離させていることと対照的です。歴史を認識しようとする主体は、認識の対象である歴史的世界の一部に含まれているのです。したがって、歴史の認識は歴史的世界そのものの自己反省に他なりません。そうならば、歴史家の主観が時代そのものの主観と合一していなければなりません。よって、歴史家は自我を消し去り、歴史そのものが歴史家を媒介として語るのが理想とされるようになるのです。

前近代の史書を巡って―中国・日本・西洋―

 中国の史書は、儒教的な歴史観の影響を強く受けてきました。そこでは「史」が道徳的教訓を引き出すためのものとされ、著者の価値判断に関わらず過去そのものの記録が批判材料になりました。つまり、記録することが批判になったのです。その証左として、事件の場に居合わせた記録者が何人も殺されています。春秋時代の歴史を描いた儒学書『春秋』は、「春秋の筆法」という、儒教の動機第一主義に基づいた歴史叙述の様式を生み出しました。こうして、中国の歴史叙述では史実(史)が倫理的批判(経)へ従属するようになります。しかし漢代に司馬遷が『史記』を著すと、彼は史書を経書から独立させます。この後、漢王朝が崩壊するとその混乱に伴って史書も多様化します。いずれにせよ、この『史記』成立後の過程で、歴史を倫理に従属させない人間の精神活動の一分野として歴史叙述が成立します。

 とはいえ、濃淡の差はあっても儒教倫理という枠組みは消えませんでした。宋代には司馬光が政治参考書として『資治通鑑』を著しますが、これは紀伝体の断代史(王朝ごとの歴史)ではなく簡潔な編年体の通史を編纂したものでした。『資治通鑑』は、司馬遷以後の歴史叙述の形骸化に対して、『春秋』の儒教倫理を再び持ち出して知的ルネサンスを起こしました。ただしこのルネサンスは、近代科学由来の新たな人間観から生まれ出た歴史意識を持つヨーロッパのそれとは全く異なるものでした。中国の歴史叙述は「学」としての歴史ではなく、「鑑」としての歴史という意識に基づいていたのです。

 日本の史書は、こうした中国の影響を大きく受けました。その影響は、『日本書紀』から『日本三大実録』までの通称「六国史」(720-901)に見られます。ただし日本の歴史叙述には独自の視点も入りました。『源氏物語』の作者として有名な紫式部は、「六国史」は人間性の機微を描けていないとして批判しました。こうした批判から、個人の心理に焦点を当てた物語風の歴史叙述が生まれます。古典文学としても有名な『栄花物語』『大鏡』『今鏡』『水鏡』などは、そうした文脈で成立しました。鎌倉時代へ入って仏教思想が洗練されると、仏教的な高次の視点が歴史叙述に取り入れられます。慈円の『愚管抄』(1220-24)は、仏教的な「道理」で「移り行く世」を描きました。こうして、日本の歴史叙述は中華由来の断代史から超越的原理による時代区分へと志向を変えていきます。こうした宗教的な歴史叙述は、のちに述べる西洋中世の歴史叙述と類似したものになりました。

   鎌倉時代からは先述の『資治通鑑』が伝来します。『神皇正統記』はこの影響を受け、「道理」ではなく倫理的な意味での人間の普遍性に立脚する叙述をなしました。これ以後の歴史叙述では汎神論的な意識が消えますが、治者道徳的な倫理観は残ることになります。

    他方、古代ギリシアの歴史叙述に端を発する西洋のヒストリアは当事者意識と強く結び付いていました。ペロポネス戦争を描いたトゥキディデスや、ポリス興亡史を描いたクセノフォンは、同時代の出来事を当事者の証言から正確な記録に残しました。したがって、これらは教訓的なものでは有り得なかったのです。

    ローマ時代には、ポリュビオスが第二次ポエニ戦争は同時代者の証言、それ以前は過去の記録から歴史叙述を行いました。またリウィウスはローマ初期の伝承的記録を収集し、一つの連続的な史話に仕上げました。こうした歴史叙述方法は、「鉄と糊」による述史法と呼ばれます。

    以上のような歴史叙述は、中世にはキリスト教による意識の変革を経験します。自民族中心主義に裏打ちされたギリシア・ローマの歴史叙述は変容し、キリスト教的な全ての人間を包摂した普遍史へと転換します。世界歴史の成立です。キリスト教的な歴史叙述は、神の意図を実現する過程として、人類の始原から遠近法的に歴史を描きました。「紀元前」「紀元後」といったキリストの誕生による時代区分は、「時代」や「時期」の区分という発想に繋がります。ただし、こうした歴史叙述は、同時代の記述には批判が伴うものの、天地創造に始まる世界史の図式には批判が無いことがしばしばでした。これに対してルネサンス期には、マキアヴェッリが『フィレンツェ史』で古典的な同時代史へ回帰する姿勢を見せました。

近代学問の成立と史学の分裂

    歴史学において、「真理」のありかは何処なのかという問題は重要です。中世では「真理」は聖書にあるとされていました。しかし近世に成立した自然科学は自然そのものに「真理」を見出し、学問を聖書や教会から解放したとされます。これにより17世紀には学問の「方法」が確立し、同世紀末には古文書学が成立しました。

    16世紀の宗教改革は、文書考証を大きく発達させました。改革を進めるプロテスタント陣営は文書を武器に教会の歴史的基礎を批判し、カトリック陣営も同様のやり方で応戦したため、文書考証が重視されたのです。フランスのマビヨンは『古文書論』(1681)を著して文書の真偽を疑い、その真正さを文書相互の関係から証明しました。この頃から「批判」という言葉は個人的な「趣味の判断」から普遍的な「真実さの検証」へと意味を変えることになりました。ただし18世紀に古文書学は専門化し過ぎてしまい、歴史の認識や叙述といった大きな問題からは遊離してしまいます。

   17~18世紀のヨーロッパでは、過去と現在との連関が強く意識されるようになりました。フランスの啓蒙思想が、こうした歴史観を成立させたのです。過去は動かない化石ではなく、現在と相関的に捉えられるべきものとして考えられました。例えば、ベールは『歴史的・批判的辞典』で過去の独断的な思想に不信と懐疑を示しました。ブーランヴィリエは『フランス旧統治史』でフランス堕落の原因を国王の専制に求める一方、デュボスは『フランス王政樹立の批判的歴史』で国王に対抗する貴族特権の根拠をフランク王国の契約関係まで遡ることで否定しました。また、モンテスキュー『ローマ人盛衰原因論』で長い歴史から一般法則を見出す「史論」を強調したのに対して、ボーフォールは『ローマ最初の5世紀の不確実さに関する論文』で古代の伝承を批判的に検証し、ドイツのニーブールはこうした啓蒙主義歴史家の仕事から史料批判の方法を継承・発展させていくことになります。

 一般的に、近代歴史学はドイツのニーブールとその継承者であるランケにより確立されたとされています。しかし近代歴史学の根幹である「歴史的=批判的方法」は、既に先述のボーフォールにより確立されていました。そうだとするならば、ニーブールの継承者であるランケの独創性は何処にあるのでしょうか。よくある議論として、ニーブールは古代史、ランケは中世・近代史を専門としていたことから、研究対象となる時代が違ったということで両者の役割が区別されます。しかし、これだと十分な説明になっていません。

 ランケ歴史学はルネサンス時代のイタリアやドイツの歴史叙述の矛盾の検証から出発しています。「特殊から一般へ登る」という一般化的考察に対するランケの個体化的把握の方法論は、特に国家の個体化的把握に関してその特徴がよく出ています。つまり、それは各国家の発展を固有の傾向で説明するというもので、ニーブールの『ローマ史』や18世紀の文献学者たちの研究に淵源を持つものではありません。実は、ランケはゲッティンゲン学派を中心とする政治学者や国際法学者の系譜に連なっていました。ランケは国家系というものに着目することでその歴史理論を成し、その時代的背景にはナポレオン戦争やウィーン体制といったヨーロッパの国家系の変遷があったのです。

 こうしてランケは19世紀前半に近代歴史学の発展へ寄与するのですが、19世紀半ばには「歴史の政治化」という現象が起こります。ここにはドイツ的な事情がありました。当初ランケが大学教員として行っていた「最近世史」の講義は、環太平洋革命からウィーン会議までを扱っていました。つまり、彼の講義はほとんどアクチュアルな現代史だったのです。しかし1830年代に入るとドイツ・ナショナリズムと共に民族的な自由の理念が高揚し、ウィーン体制的な勢力均衡を旨とするランケの想定した国家系は時代遅れとなりました。例えば、自由主義者のダールマンは革命の自由主義的解釈を歴史家の使命とし、民族主義者のドロイゼンはその歴史叙述においてプロイセンによるドイツ統一を主張したほか、中世史家のジーベルはフランス革命への関心から近現代史家に転向し、またイタリア政策論争にも手を出しました。このように、「歴史の政治化」は、歴史家の政治問題への関心と実際政治への接近、政治的関心に基づく研究テーマの取捨選択といったようなことを引き起こしました。こうしてランケの構想した国家系は受け入れられなくなり、ドイツの歴史学はナショナリズムの影響下で政治化してしまいました。

 同じ頃、イギリスやフランスでは「歴史の科学化」という現象が起こります。統一国家の建設という問題を既に解決していたイギリスとフランスではドイツのようなことは起こらなかったのですが、社会科学の理論が歴史学に入り込みました。「歴史の科学化」を支えていたのは、模写の精神です。社会進化論者のスペンサーや動物学者のハクスリーは学問上の客観性に偏重することで、そうした精神を広めました。こうしたわけで、人間精神の創造的で主体的な活動よりも、環境による人間の拘束が重視されるようになったのです。文学における自然主義の流行もこの文脈に位置し、のちにはサイエンス・フィクション(SF)というカテゴリーの確立に繋がりました。こうして、自然認識と歴史認識とが混同され、文学の自然主義や科学の実証主義が歴史学に入り込むことになります。「史」の主客合一は、「歴史の科学化」で変容することになりました。

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 以上が『史学概論』の内容です。先述した通りこの本はやや古くはなっているものの、ヨーロッパだけでなく中国と日本の歴史叙述をも史学史的に整理しているという点で、その価値は侮れないものでしょう。また抽象的な議論が目立つものの、認識論的な視点を採り入れつつ、160頁程度で議論がまとめられているので、史学史を学ぶには良書です。

 ただし、この本にはいくつか欠点もあります。まずはイスラームの欠如です。ヨーロッパに囚われず幅広い視点を提供していることは評価できますが、イスラーム世界の歴史叙述に関する記述が全くありません。これはイスラーム学が現在ほどには発展していなかったという執筆当時の時代的な制約によるものでしょうか。また、ニーブールとランケとの違いは詳細に議論されているのですが、ボーフォールとニーブールとの違いは有耶無耶にされたままでした。更に、ニーブールとランケとの違いを詳述した部分は、概説というより持論を展開しているという色彩が強く、読み手を混乱させるような構成でした。これを国際政治史に強い中山先生の専門性が顕現したものと見ることもできるのですが、それまでの記述は概説的だったのに対し、近代歴史学の成立について述べた部分ではもはやランケの理論を自明のものとして話を進めている嫌いがあり、これを「概論」と呼んで良いものなのかと疑問を抱かざるを得ませんでした。

今回は以上。次回は未定です。