2018年7月5日木曜日

一週一論:ヘルムート・シュニッター「ブランデンブルク軍のレフュジエ」(ドイツ語論文)

 今回紹介するのは、ヘルムート・シュニッター先生の1988年のドイツ語論文「ブランデンブルク軍のレフュジエ(Die Réfugiés in der brandenburgischen Armee)」です。「レフュジエ」はフランス語で元来「難民たち」や「亡命者たち」を指しますが、ここでは17世紀末にフランス王権からの迫害を逃れて国外亡命したカルヴァン派信徒たち、すなわちユグノーのことを意味します。これまでの記事でも扱ってきましたように、ブランデンブルク=プロイセン(のちのプロイセン王国)もそうしたユグノーの受け入れ先となりました。彼らには商工業者や知識人が少なくなかったことから、亡命ユグノーはプロイセンやその首都であるベルリンの経済史や文化史の分野で(少なくともドイツ本国では)多く取り扱われてきました。しかし軍隊における彼らの役割となると、研究はかなり限られています。そこに光を当てたのが、東ドイツ時代にポツダムのDDR軍事史研究所に所属していたシュニッター先生の研究です。

この論文は、以下の著書に収められています。
 

 まず著者は、1685年11月31日にブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィヘルム(大選帝侯)がゲオルク・デルフリンガー元帥へ書いたある手紙を取り上げます。「貴殿も前から知っている通り、朕が改革派信仰を理由にフランスから追放された人々へ実に大きな同情を抱き、そのために朕が新しい連隊を馬と歩兵で編成する仕事に関わっている」。筆者によれば、この手紙はプロイセン軍事史において最も重要な出来事の一つを示すものだそうです。その出来事とは、ユグノー系貴族将校がブランデンブルク=プロイセン軍へ移籍したという事実です。ユグノー系将校は、軍内で独自の集団を形成することになります。当時の状況からすると、選帝侯はこうしたユグノー系軍人を歓迎しました。というのも、ブランデンブルク=プロイセン軍は予備部隊を対オスマン戦争に割き、必要な時にはユグノーの連隊を補欠として起用することができたからです。

 1685年の秋にナント王令が撤回されると、フランス王ルイ14世へ仕えていた多くの将校たちがフランスから去り、彼らはそのことをベルリンの宮廷へ連絡して、自分たちが雇って貰えるよう願い出ました。当時のベルリンは要塞都市でしたが、そこには予算削減のため新入りを受け入れない小さな駐屯軍が存在するのみでした。そのため、ユグノー系軍人には国境地域を防衛する役割が求められ、ベルリンへ来たユグノー系将校の大半は田舎で中隊勤務に就きました。こうしたユグノー系将校の存在は、ブランデンブルク=プロイセンの軍隊組織に長く影響を及ぼすことになったのだと、筆者は強調します。
 
 フリードリヒ・ヴィルヘルムが選帝侯に即位した頃の常備軍は、要塞駐屯兵のみという陣容でした。戦争中の命令権者は中隊長であり、中隊長は自前で経営し、大きな代理権を持ち、選帝侯に対して強い力を持っていました。相当な戦力のある軍隊を創設するというのは、とりわけ財政上の問題と絡んでいて複雑でした。選帝侯はようやく1653年に領邦議会で数年間の資金を得て、何とか小規模な戦力を維持します。しかし土地貴族への大きな譲歩を経て達成された軍隊の拡充も、一連の対外戦争が落ち着くとほぼ元に戻ってしまいます。将校は主にブランデンブルク=プロイセン貴族から募集されましたが、フランスやスウェーデンやポーランドやその他のドイツ系領邦からの貴族も一時的に勤務しました。また将軍まで昇進して叙階された農民や市民の出身の人間もいました。ヨアヒム・ヘニングス・フォン・トレッフェンフェルト(Joachim Hennings von Treffenfeld)や先述のデルフリンガーがそうです。将校・下士官・兵卒の社会的な境界は、1648年以後しばらくは流動的で開放的でした。この傾向は、18世紀前半にプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(軍人王)が閉鎖的な将校団を組織するまで続きました。

 ブランデンブルク=プロイセン軍の発展には、17世紀末からフランス軍が模範として大きな影響を持ち、フランスと同様に軍隊は王権を支えるために利用されました。フランスの将校、要塞建築士、戦争技師、軍事官吏は他国でも少なからず雇用されていることから、これは当時のヨーロッパに共通するものだったと言えます。こうした文脈で、ナント王令が撤回される前にも多くの将校や将軍がフランスを離れてブランデンブルク軍へ入っていました。例を挙げればピエール・ド・ラ・キャーヴ(Pierre de la Cave, 1605-79) やサン・ルー男爵(Baron de Saint-Loup, 1620-92)などがおり、最も多い時期(1685-88年頃)には約600人の将校と下士官、そして1,000人以上の兵卒がブランデンブルク軍へ入りました。これは選帝侯が軍隊の拡充を必要としたからであろうと、筆者は述べています。ユグノーには熟達した軍人が少なくなく、青年将校の中にはフランスの軍幹部養成学校の生徒だった人々が含まれていました。非常に限られた一般的知識しか持たないブランデンブルクとポンメルンの多くの貴族子弟とは異なり、ユグノー集団に属していた軍人は高度な教育を受けていて、フランス語のネイティヴであったことから、特に当時最先端とされたフランス語の軍事文献に通じていたようです。

 しかし総体で見ると、ユグノー集団における軍人の数は比較的に限られていたそうです。ユグノー系軍人に課せられた目的は、以前からフランス出身の将校や将軍が活動していた西方地域に駐屯軍を形成することでした。ただし彼らは居留区の権利に浴することはなく(ユグノー居留区に属する人々は居留区裁判権など様々な特権を授かっていた)、ブランデンブルク=プロイセン軍の裁判権に属することとなりました。因みに、年齢的に将軍や将校を務められない者は選帝侯から年金を下賜されています。800人以上で構成された16個中隊を伴うヴァレンヌ歩兵連隊はゾースト、ヴェルデン、ビーレフェルト、そしてヘルフォルトに駐屯し、10個中隊を伴うブリクモール甲騎兵隊はリップシュタット、ミンデン、クレーフェ、そしてラーフェンスベルクに駐屯しました。同様にブリクモールに指揮された5個中隊を伴う歩兵大隊と、4個中隊を伴うクールノー大隊はブランデンブルクの旧・新市街に駐屯しました。また特筆すべきこととして、フランスの国王護衛銃隊を模範に、ユグノー貴族出身者から構成されたグラン・ムスケテール(Grand Mousquetaires)という銃兵隊が創設されたことがあり、この隊はプレンツラウとフュルステンヴァルデに駐屯しました。その構成員は低くても少尉以上の階級であり、彼らは高給を約束されていました。

 ユグノー系軍人に求められた人材としては、他にも要塞建設の知識を持つ将校や戦争技師があります。例えばルイ・カイヤール(Louis Cayart, -1702)はフランスの有名な建築士ヴォーダンの生徒で、ベルリンのランゲ・ブリュッケやフリードリヒシュタットのフランス人教会(プロイセン・ユグノー初の独自教会)を建設しました。ジャン・ド・ボー(Jean de Bodt, 1670-1745)は1699年にヴェーゼルで要塞建設を監督し、ヨハン・アルノルト・ネーリングが着手したベルリン武器庫の建設を引き継ぎました。

 筆者は、既存連隊とユグノー連隊の内実の違いにも注目します。フランス人歩兵で構成された連隊は12~16個中隊で編成され、各中隊は50~60の兵士を擁していました。これに対してブランデンブルクの中隊は100人を超えましたが、原則的に8~10個中隊が各連隊に属しました。フランス人の歩兵隊には比較的多くの将校が属し、兵士に対する監督能力も高かったそうです。カルヴァン主義を奉じるユグノーは市民的・宗教的な職業倫理から規律意識が高く、当時慣例となっていた鞭や棒による処罰を受けることは少なかったと言われています。こうした兵士たちをジャック・ル・オモニエ・ド・ヴァレンヌ(Jacque l'Aumonier de Varenne, 1641-1717)、ジョエル・ド・クールノー(Joèl de Cournaud, 1637-1718)、アンドレア・ルヴェイヨ・ド・ヴェーヌ(Andreas Reveillos de Veyne, 1658-1726)といったユグノー系の将帥が率いて、華々しい戦果を上げました。やがてユグノーの軍隊とブランデンブルクの軍隊は18世紀に比較的速く統合されましたが、ユグノーの思想だけは足跡を残したと筆者は言います。ユグノーの子孫の名前は1914年までプロイセン軍の将校名簿に残っており、19世紀でもユグノー系将校が軍事学研究で大きな役割を果たしたそうです。

 ユグノー系軍人の存在は、軍事教育制度にも重要な影響を及ぼしたと筆者は言います。というのも、ユグノー系将校が第一線で幼年学校の設立に関わったからです。青年貴族が独自の学校で軍務に備えるという発想は当時でも新奇なものではなかったそうですが、ブランデンブルクでは、ベルリン、ブランデンブルク、コルベルクその他の場所に騎士アカデミー(貴族子弟のための学校)が建てられました。これらは短命に終わったものの、遺産相続権の無い貴族子弟である「士官候補生(cadets)」が先進的なフランス軍の制度を持ち込みました。ベルリンに駐屯する近衛隊には主として地方出身の青年貴族が所属していました。そのベルリンでは18世紀初頭に主要な幼年学校が創立され、士官養成が制度化されていきます。

 筆者は「封建絶対主義の統治とのちの資本主義的なプロイセン・ドイツ軍国主義の下で、これらの軍事機関はむろん目覚ましい発展を成し」、「それらは将校階級の災いに満ちた精神の苗床、すなわち戦争と軍事的な暴力と国粋主義的な僭越の称揚となった」と但し書きをした上で、「しかしながら本来、青年将校を養成するという発想は17世紀初頭の軍事的な改革思想の成果だった。これらの機関は、市民、農民、そして貴族から成る戦力を切迫した三十年戦争に備えるべく領邦の防衛に当たらせることを目的としており、そこでは貴族や市民の子弟が将校となるべく教育を受けた。(中略)ユグノーの思想は現地人から構成される民兵隊にも及んだ。フランスでは1660年頃にそのような計画をルヴォワ(絶対王政期フランスの軍制改革者)が用意していた。(中略)ここにおいても、16世紀のユグノー戦争まで遡るユグノーの伝統があった。当時、傭兵隊と民兵団に似た在郷部隊からユグノーの戦力は構成されていた。ブランデンブルクでも選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムが民兵隊を作ろうとしていた。1701年には民兵団に関する回状命令が国王から出されている。しかしながら、こうした実践の成果は限られていた。だが、在郷民兵団の設立に際してユグノーの影響が確実に及んでいたことは明白である」と軍事思想におけるユグノーの役割を強調しています。

 最後に筆者は、ユグノーはブランデンブルク=プロイセンの社会構造を変革するまでには至らなかったものの、軍事に関わる精神や思想の面で彼らが大きな影響を残したと結論付けています。筆者の見解はユグノーの役割を限定的ながらも肯定的に評価するものですが、この論文は近世ブランデンブルク=プロイセンの軍隊におけるユグノーの役割に光を当て、そうした事実を整理したという点で貴重な研究だったでしょう。こうした研究を基礎として、軍隊を舞台としたプロイセン・ユグノーの研究がドイツで議論の俎上に載せられたようです。