2017年10月23日月曜日

文献紹介:永田諒一『宗教改革の真実』

  第2回の文献紹介で扱うのは、永田諒一(2004)『宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史』(講談社現代新書)だ。この本は10年以上前に出版されたものだが、今年は宗教改革500周年ということで宗教改革に関する概説的な文献を取り上げる。安価な新書なので、この時代のヨーロッパにご関心のある方にはお勧めである。

 まず、この本の大まかな論点について述べておきたい。著者は、一次史料と先行研究の蓄積を基礎に宗教改革時の社会像を描くという姿勢で一貫している。そこでは、私がのちに述べるアナール学派の業績を踏まえ、「変化しないもの」の「社会史」研究という視角に拘った。また著者は宗教改革期における「意図された」改革と「意図されていなかった」改革を区別し、その事例を挙げている。当書によれば、宗教改革期は「近代」の始まりではなく、中世の様々な価値観や教会体制が否定されていく「リストラ期」であった。

 私はそういった当書の内容について、次の三つに注目した。第一に、一般民衆は宗教改革を巡る神学論争をどこまで理解していたのか。第二に、宗教改革派はメディアを介して民衆にどう宣伝活動を行い、どこまで効力を持ったのか。第三に、空間を共有する異宗派間でどのようなコンフリクトが生じ、世俗権力はそれをどう調整したのか。

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1. 社会史研究の発展

   社会史研究とは、「変化しないもの」の歴史である。社会史研究は、社会上層に位置する少数の政治家や知識人を取り上げて事件史を主とする19世紀のドイツ的なランケ以来の伝統的歴史学と決別し、「普通の人々」の暮らしぶりに注目することから始まった。20世紀前半、フランスのブロックとフェーブルを中心とする学術雑誌『アナール(年報)』から成立したアナール学派は、社会全体を視野に入れる「全体史」と、社会学や経済学など「歴史学の隣接諸科学」を重視し、社会史という学問分野の草分けとなった。アナール学派次世代のブローデルは、「長期的に持続する歴史」、特に「マンタリテ(心性)」の歴史を唱え、社会の中下層に注目した。変化するものを追究する学問が「変化しないもの」を追究するとは、矛盾したことのようにも聞こえるが、そこに社会史研究の面白さがある。こうした成果を踏まえて社会史研究の視点から宗教改革を捉えるというのが、著者の方針である。

 こうした社会史研究と関連して、通説が覆された例がある。ルターが『95箇条論題』を教会の扉に貼り出し、それが宗教改革の嚆矢となったという有名な話があるが、これが疑問視されるようになった。1031日」に「『論題』を(ヴィッテンベルクの)城教会の扉に張り出した」という言い伝えがこの通説の由来なのだが、これはあくまで伝聞に過ぎず、実は同日前後にルターがマインツ大司教へ「『論題』を書状で送り届けた」ことだけが確実なのである。貼付は改革運動が始まってから支持者が勝手に行ったとも言われており、『論題』の原本が存在しないために事実はより分かりにくいままである。この通説はルターの助手であったメランヒトンが執筆したルター伝で主張したものだが、この伝記は書き殴りのような内容で史料的価値は低く、はっきり言って全く信用できない。こうした曖昧さが生じてしまうのは、改革前までのルターが無名の一民衆であるために史料が少なく、16世紀というメディアが限られメディアへのアクセス手段も限られた時代の史料的制約による。このことは、歴史研究の一つの成果であるとともに、社会史研究の限界を示す事例でもある。
 
2. リテラシーとメディア

 ルターの『論題』貼付が疑わしいとすれば、有名なグーテンベルクが印刷術の「発明者」であったという主張にも疑問が持たれる。実はグーテンベルクも生前はルター以上に無名の人物であり、彼の印刷術は当時では全社会的な関心を喚起しなかったとされる。彼の伝記や業績紹介の文献も概ね死後に著され、発行年も印刷業者も記されていないものだった。これも信用できないわけである。俗に「グーテンベルクの発明」と呼ばれるものは個別技術の質的改良や事業化の総体に過ぎず、例えば活字を組み合わせて複製をする技術は14世紀からあったことから、こうした評価が妥当なようである。また、1150年に最初の製紙工場がスペインに、1390年にドイツ初の製紙工場が建設されており、この間に高価で生産速度の低い羊皮紙から安価で大量生産しやすい紙の使用へと移行していったことは、既に「グーテンベルク革命」の素地を作っていた。宗教改革派(プロテスタント)が活版印刷術を思想宣伝に利用することで、紙媒体の普及が爆発的に進んだのである。事実として、出版物の種類は宗教改革が始まる1520年代から16世紀初頭までに約100倍となった。

 だがこれだけ本があっても、字が読めない人が多数を占めれば、紙媒体を通じた思想宣伝のハードルは高くなる。当時、貴族層の半数近くと民衆の大多数は文字と無縁の生活を送っており、16世紀前半でドイツ語圏の識字率はたった5%だった。識字率には当然ながら地域差もあり、都市部では3050%で、先進的な西南ドイツほど高く、こういった地域は読み書きを教授できる学校が多かったのも特徴である。またヨーロッパの識字率の基準では、自分の名前が読み取れて書けるだけでも「読み書きができる人」と判断されるため、より厳しい基準で識字率が9割を大きく超えた近代以降の日本と比較すれば、もはや異次元である。したがって、一般民衆の間では各人の独自解釈で黙読するような「個人読書」は行われにくく、聖職者など教養のある人が文字を読めない人に代わって読み聞かせる「集団読書」がよく行われることになる。この「集団読書」は宗教改革派の思想宣伝の機会となった。というのも、読み聞かせを行う人は「集団読書」の際に自身の解釈や抑揚を加えることができたからである。リテラシーの開きは、知識人による公の場でのアジテーションを可能にしたのだ。

 とはいえ、教養の無い一般民衆への思想宣伝に最も役立つのは視覚メディアであろう。宗教改革派は、キリスト教徒なら誰もが知っている記号を用いることで、図像宣伝に役立てた。宗教改革派は絵入りの冊子を頻繁に配布した。特にカトリックの親玉であるローマ教皇は批判の的となる。そこで用いられた記号として「三重の王冠」が挙げられるが、これは教皇の被る王冠として一般信徒にもよく知られていた。そのため、「三重の王冠」を被って描かれている人物はローマ教皇だと一目で分かるのだ。また、悪辣そうなライオンの姿をした教皇が描かれることもあったが、これは贖宥状販売を促進してルターの顰蹙を買った教皇レオ10世のことを表していた。「レオ」とは、ラテン語で「ライオン」に当たる単語である。また、愚者の象徴であったロバは「反キリスト」を表し、悪弊の元凶とされた教皇や悪徳聖職者をこき下ろす記号として使われた。

 一方、ルターに対してはあからさまな称揚が目立つ。彼は修道士服と剃髪という姿で描かれることがあったが、この姿はまさに修道士の身なりであり、キリスト教世界における尊敬の対象であった。もっとも、ルター自身は修道制に否定的だったのだが。博士の帽子と法服という姿で描かれたルターは、真理が宗教改革派にあることを示し、彼の絵によく描かれた鳩は、三位一体における聖霊を表すことから、ルターの正統性を強調する効果を持った。こうした描き方には、極端なまでの教皇の戯画化とルターの英雄化という傾向が見られる。「ドイツのヘラクレス」という木版画には、ギリシア神話の英雄ヘラクレスよろしく屈強そうなルターが教皇や聖職者を成敗している様子が描かれている。いささかルター贔屓が過ぎている感はある。

 思想宣伝において表出したリテラシーの開きという問題は、当時のヨーロッパが文化的にエリート層の「大伝統(メインカルチャー)」と一般民衆の「小伝統(サブカルチャー)」とに分断されていたということと相関関係にある。エリート層においては学術言語のラテン語が共通語でもちろん識字率も高く、それに対して民衆は知識と権威のある人から口述で知識を得るべきだという伝統があった。確かに、土着化した農村部の下級聖職者はラテン語が読めず学識にも欠けたという例はあるものの、文字を巡る階層分化はかなり明白だった。

 宗教改革派がこうした階層分化を踏まえて巧みにメディア戦略を展開したのに対し、カトリック教会は活字宣伝文書の活用に消極的だった。カトリック教会では「印刷された本は美しくない」「印字には心が籠っていない」というような意見が上層部を占めていたのである。カトリック教会が思想宣伝のために提供した少数の出版物も、エリート階層に向けた難解な内容で、芸術的装丁の施された高価なものであり、とても一般民衆の手に届くものではなかった。それに対して宗教改革派はみすぼらしい粗悪な紙と誤植の多い粗末な印刷が特徴であり、また「集団読書」を前提とした口語調に加え、民衆に親しみやすい俗語やセンセーショナル案な罵言も多分に採り入れられていた。

  カトリックは「大伝統」の担い手だったことから伝統的思考を打ち破れないでいたのに対し、宗教改革派が柔軟な姿勢を示せた背景には、両者の指導層が世代的に異なっていたということがある。原則的に階層制の無い宗教改革派は20~30代が指導層であり、例えば1520年の時点でルターは30代後半、その助手メランヒトンは何と20代前半であった。彼らは「新しいメディアに馴染める世代」であったから、文字印刷の導入に柔軟な姿勢を示せたのだ。他方、教皇を頂点とする階層制が自明の理であったカトリック教会は上位聖職者が年配者で占められており、指導層は「新しいメディアに馴染めない世代」として活字宣伝を積極的に行わなかった。もちろんカトリック側にも活字宣伝の有用性を唱える意見はあったが、そうした主張をしたのは30~40代の比較的若く位も低い聖職者たちであった。

3.民衆の素朴さと聖像破壊

 民衆は神学理論を理解してカトリックを信奉したり宗教改革派に転じたりしたのかというと、答えは否であると言わざるを得ない。それを示す一つの例が、悪名高い贖宥状(免罪符)の販売である。キリスト教では、現世で罪を犯した人は天国へ行く前に煉獄という場所で苦しみを味わわなければならないということが一般に信じられていた。贖宥はそもそも現世で罪を犯した人間がそれを生前に取り消して貰うというものだったが、これは現世を去り煉獄で苦しんでいる故人にも有効とされた。「親孝行をしようとした時にはもうその親がこの世にいない」ということはよくあることだが、脛に傷がある親を持つ人々にとって、贖宥状の購入はまさに「親孝行」となった。これが贖宥状の販売実績を伸ばしたとされるが、こうした贖宥状販売が自領地に及ぶのを面白く思わない領主がいた。それが、「賢公」と呼ばれたザクセン選帝侯フリードリヒである。彼は多数の聖遺物を所有し、それらを領民に拝観させて耳目を集めていた。

   聖遺物とは、イエス・キリストや聖母マリアおよび諸聖人の遺物や遺体の一部のことで、これに拝むことで神から恩寵を受けることができると信じられていた。したがって、この効能は贖宥状と競合するものであり、贖宥状販売はフリードリヒにとって、自分のお株を取られるようなものだったのだ。こうして、フリードリヒはローマ教皇の意を受けて贖宥状販売を進めようとする神聖ローマ皇帝に反旗を翻し、ルターをザクセンのヴァルトブルク城に匿ったのである。因みに、聖遺物に含まれた「キリストの遺骨」は千人分もあり、こうした事実から、聖遺物拝観というイベントがインチキであったと言うこともできる。そう考えれば、「賢公」も教皇も五十歩百歩であったのかもしれない。ともかくここでは、民衆は神学理論を詳細には理解せず、素朴な信仰心で贖宥を求めていたことが分かる。

 こうした素朴な民衆は、宗教改革に際してどのようにその支持を表明したのだろうか。参政権も無く文章も書く能力の無い宗教改革派の民衆は、「宗教改革の支持者は何をすべきか」ということを重んじることで、自らの宗教的立場を発現させた。その分かりやすい例が、聖画像破壊運動である。宗教改革派のアジテーターは民衆に分かりやすいよう神学説明を単純化したが、それが極端な二項対立を意識させ、目に分かる「行動」の実践や支持が信仰の証明ということになった。

 当時、カトリックによるマリア像の崇拝が行われていたところ、偶像崇拝に否定的な宗教改革派がこれを非難し、スイスのチューリヒなどで多くの民衆が破壊運動へ熱狂的に参加する事態となった。これにはカトリックの奢侈に対する反感や、破壊に乗じて盗んだ奢侈品を転売することで金儲けをしようとする動機もあったものと考えられるが、注目すべきは、聖像崇拝に参与した民衆と聖像破壊に参加した民衆が、ほぼ一致していたということである。つまり、改革前はマリア様にひれ伏していたその人が、改革後に一転してマリア像を破壊する側に鞍替えしてしまうことが大いに有り得たということだ。このことは、彼らの動機が精緻な神学理解に基づくものではなく、身近な日常や個人の感情に即した素朴なものであったことの証左である。

   この時、宗教改革派が優勢を占める地域の教会芸術職人は失職を余儀なくされるが、一方で彼らは宗教改革派に同情的な面もあった。ここは単純な既得権益の議論では説明できない。こうした人々は今まで培った技術を活かして宗教改革派の思想宣伝を担う木版画職人に転向したともいわれる。

4. 結婚と異宗派併存

 さて、ここからは宗教改革がもたらした種々の改革の話に移る。第一に挙げられるのが、聖職者の還俗、すなわち独身でなければならなかった聖職者が婚姻を結んで世俗の人間に戻るということである。修道院での厳しい修行と戒律に反感を抱いていたルターは、修道制を否定し、禁欲の独身制を否定し、結婚による還俗を奨めた。これには、カトリック的な階層制を否定すべきという表向きの考えと、聖職者たちが自分の性的欲求を我慢できなくなったという本音があった。還俗した聖職者の結婚式は宗教改革派のプロパガンダ儀式となった一方、カトリックは結婚相手となる女性の卑俗さを強調してそれを批判することが頻繁であった。

 ところで、当時は男性人口に対して女性人口が多かった。これは、不摂生や喧嘩や戦争のために男性が女性よりも多く死亡したことによる。この不均衡を正すため、貴族や裕福な家庭は一定数の娘を修道院に送り込むということをしばしば行った。ルターの妻もそのような貴族の娘である。修道女は意に反して牢獄に放り込まれた身分であり、結婚への欲求は潜在的に大きかった。このことは、宗教改革派の支持基盤を築く一助となったのである。ただし、男性の場合、修道士というのは出世コースを意味した。しかしそうした男性もやはり妻帯を望むことが多く、ファムーラと呼ばれる役割の女性と同居することも少なくなかった。ファムーラとは、形式的には身の周りのお手伝いをしてくれる家政婦のような女性のことだが、実質的には妻の役割を果たした。こうした願望はカトリック教会のモラルに反した姿勢で、しかも神に認められる公式な結婚への欲求があったところ、ルターの個人的な内面問題は、当時の聖職者が抱えた心の悩みに解答を与えたということになるのだ。

 宗教改革に伴い、神聖ローマ帝国各地の領邦や自由都市はその改革を導入するか否かを決断することになるわけだが、「聖なる共同体」たる都市共同体が宗教改革導入を決めた場合、様々な問題が生じた。宗教改革は、ドイツ農民戦争(1524-25)に代表される農民反乱の失敗によって転換期を迎え、「下からの改革」は「上からの宗教改革」へとベクトルを変換されることになる。その帰結が有名なアウグスブルクの宗教和議(1555)であり、ここでは領邦君主が領民の宗派を決めなければならないと定められた。つまり、領民たちは自分の意思で宗旨を決めることができなくなったのである。この場合、どちら一方が圧倒的に優勢な土地であれば単一宗派でやっていけるかもしれないが、カトリックと宗教改革派がひしめく自由都市では、両宗派が公認されることになる。以下で取り上げるアウグスブルクやドナウヴェルトなどの南独都市はまさに両宗派併存都市だった。しかし、「聖なる空間」たる都市城壁内は信仰について統一的でなければならないという理解が当時にはあり、これはその理解と矛盾するものだった。というのも、宗教は生活と不可分に結び付いた共同体の維持に関わる問題であり、政治と宗教の一体性は社会的な前提であったからだ。そうなると、当然ながら両宗派併存都市は宗派対立に悩まされることになる。

 ここではアウグスブルクにある聖ウルリヒ教会の共同利用に関する例が挙げられる。ここでは両派が壁一つを隔てて教会堂を利用してたいたものの、宗教改革派の側には説教壇と鐘が欠如していた。利害を調整するべく動いた市政府の指令を受けて、教会の所有権を持っていたカトリック側は説教壇の提供に同意するも、その際に加えて要求された合鍵の引き渡しには否定的だった。結局、カトリック側は渋々ながら市政府の命令に従ったが、ここではカトリック側は宗教改革派を「異端の輩」、宗教改革派側はカトリックを「瀆心の徒」と見ていた。またある時、スペイン王フェリペがアウグスブルクを訪れた際、警備のために随行していたカトリックのスペイン軍兵士が宗教改革派の礼拝堂を見て狼藉を働くという事件があった。市政府はのちに修復へ協力するが、その際にカトリック側の妨害があったという。礼拝堂については、カトリック側が改築をしようとした際にも宗教改革派の抗議があり、常に「教会がどちらの所有物か」という問題が潜在していた。同じ空間を共有するという点では、カトリックによる中庭救貧活動も問題となった。教会の中庭は両派の共有スペースだったのだが、カトリック信徒が中庭に貧民や浮浪者を集めて救貧を施すのを、宗教改革派は「神の意志にそぐわぬ身の立て方」と非難した。

 空間の共有という問題は、ヴェストファーレン条約(1648)で一応の決着を見ることになり、宗教改革派は所有権を共有した。その決着の背景には、「宗教的寛容」理念が一般信徒には届かぬものであった中、世俗の市政府による迅速で公平な調停がなされたということがある。宗派対立の妥協的結果として異宗派が併存し、その間に「意図せぬ副産物」として現実主義的世界観が醸成されていたというわけである。

 空間の奪い合いという面では対立が頻繁に起こったようだが、一方で異宗派間の結婚は意外にもかなり一般的だった。三十年戦争という宗派対立の激化した非常時を除いては、結婚と宗旨は区別されていたものと考えられる。二宗派共存体制は異宗派間の結婚を促進し、結婚の公認は情勢次第だったが非公式に男女関係を結ぶ事例も少なくなかった。ただし、当時の恋愛観や結婚観を語るには史料的制約があるため、ここは難しいテーマだろう。

5. 改暦と「行列」を巡る紛争

 両宗派が併存するアウグスブルクでは、暦を巡っても論争が起こった。これは、カトリックの「意図しなかった」反撃と位置付けられる。ローマ教皇グレゴリウス13世は、科学的合理性を重視してユリウス暦からグレゴリウス暦への改定を行った。市政府が新暦を導入しようとするのに対し、宗教改革派はアウグスブルク宗教和議が禁じた宗教への世俗の介入として反対するも、市政府は宗教改革派の祝日だけ旧暦に基づくこととして調整した。

 すると問題になったのが四旬節である。四旬節とはキリスト教世界で肉食が禁じられる時期であり、今や観光資源としても有名な謝肉祭(カーニヴァル)はその直前のお祭りである。ここで頭の体操をしなければならないが、宗教改革派が新暦と時間的にズレのある旧暦を採用したとなると、同市では四旬節が一年に二度もやって来ることになる。そして、当時のアウグスブルクで精肉業を営んでいたのは大多数が宗教改革派であった。宗教改革派の精肉業者はカトリックなら肉食を許されているはずの旧暦の四旬節に販売を拒否したため、カトリックは宗教改革派の四旬節にもお付き合いして肉食を絶たねばならぬことになり、これはカトリック住民の不満を起こした。だがこれは裏を返せば、いくら宗旨が違えども宗教改革派の業者がいなければカトリックも肉食ができずに困るという、一種の「腐れ縁」がそこに成立していたということである。

 こうしたこともありつつ、市政府は改暦を布告する際、これは宗教改革派がカトリックに屈服をしたわけではないことをも平和維持のためにはっきりと通告した。市当局と聖職者との間に生まれた、旧来の思考を乗り越えるメンタリティが、何とか両者の衝突を抑えていたのである。

 アウグスブルクは両宗派の共存が維持された好例だが、やはり上手くいかなかった例もある。それがドナウ河畔の帝国自由都市ドナウヴェルトである。そこではカトリックが宗教上の行進式として聖遺物や旗を掲げて行う「行列」が問題となった。これは、カトリックの「意識した」反撃と位置付けられる。当時、ドナウヴェルトは宗教改革派が多数を占め、宗教改革を導入していたが、少数派のカトリックにも配慮せなばならない状況にあった。市政府は当初「行列」に譲歩しその遂行を認めるが、「不治の病が治る」という奇蹟を信じた一般民衆が熱狂して「行列」へ参加し市内を練り歩く様子を見て、宗教改革派は「行列」を妨害する行動を取った。市政府は皇帝から宗教和議の内容を履行するよう厳命されるが、市政府は対応を怠り、過激化する宗教改革派を鎮めることはしなかった。1606年4月25日、大祈願祭を祝うカトリックの「行列」中に「ドナウヴェルトの旗争い」という殴り合い蹴り合いの騒擾が起こってしまい、両派の不満は爆発した。両派の騒擾は明らかな宗教和議違反とされ、同市は帝国追放という重罰を受けた。つまり、自治権を剥奪されたのである。これに乗じて隣国のバイエルン大公はドナウヴェルトを武力占領し、彼は同市をカトリック化して自領に併合してしまった。市民の抑えきれなかった宗派対立感情、都市政府の古い意識と安易な対応が、帝国自由都市を崩壊させたのである。

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 以上がこの本の概要であるが、最初に挙げた注目点に即してまとめを述べ、結びとする。

 第一に、一般民衆は宗教改革を巡る神学論争をどこまで理解していたのか。一般民衆は、神学論争はほとんど理解せず、悪徳聖職者たちへの素朴な不満が改革を支持させた。カトリック教会の奢侈や卑劣な金稼ぎが彼らの反感を呼び起こし、それが宗教改革派の支持へと繋がったわけである。聖画像破壊運動といった過激な行動は、彼らの信仰態度の素朴さを表している。

 第二に、宗教改革派はメディアを介して民衆にどう宣伝活動を行い、どこまで効力を持ったのか。宗教改革派はキリスト教徒に通じる「記号」を用いた図像宣伝を積極的に展開し、単純な図式化で各地の多数派を確立した。指導層の若さを考えれば、これは新メディアを用いた「若者の反逆」とも言えるのではないか。また、それに対抗したのもカトリック若年世代だった。ここでは十分に語り得なかったが、カトリックも防戦一方だったわけではない。のちの対抗宗教改革運動でイエズス会が演劇による思想宣伝を行ったことは、彼らが何もメディア戦略に全く長けていなかったわけではないということを示す証左であろう。しかし、そうした新メディアの「分かりやすさ」志向は、少数エリートによる煽動と一般民衆の熱狂をもたらしたのだ。

 第三に、空間を共有する異宗派間でどのようなコンフリクトが生じ、それを世俗権力はどう調整したのか。主に教会共用と祝祭紛争においてそのコンフリクトは先鋭化したが、世俗権力はアウグスブルク条約の強制もあって原則的に調整的役割を担った。ここで著者は異宗派間で頻繁に妥協的な交渉が行われてきたという「環境」が生んだ新思考の現実主義、世俗当局と聖職者たちとの間での高度な政治的駆け引き、そして住民の自制が大きな役割を果たしたと何度も主張している。しかしながら私としては、その前提としてアウグスブルクの宗教和議という上位権力による「寛容」を強制する力学が働いていたことも、最後に指摘しておきたい。

 次回の文献紹介は、小山哲(2013)『ワルシャワ連盟協約(1573年)』(東洋書店)です。

2017年10月11日水曜日

文献紹介:エッカルト・ビルンシュティール / アンドレアス・ラインケ「ベルリンにおけるユグノー」(ドイツ語)

 初めての文献紹介で扱う文献は、Birnstiel, Eckart und Andreas Reinke1990“Hugenotten in Berlin”Von Zuwanderern zu EinheimischenHugenotten, Juden, Böhmen, Polen in Berlin, Berlin : Nikolaische Verlagsbuchhandlung(邦題:エッカルト・ビルンシュティール / アンドレアス・ラインケ(1990)「ベルリンにおけるユグノー」『移民から住民へ―ベルリンにおけるユグノー、ユダヤ人、ベーメン人、ポーランド人』ニコライ出版書店)である。ここでは19世紀にドイツ統一を主導することになる近世の軍事大国プロイセンが舞台となっており、ユグノーというのはフランス系のカルヴァン派信徒、つまり近世フランスで少数派を占め、17世紀後半に国外へ亡命していくことになったプロテスタント信徒のことである。

 当書の位置付けや論点について、大きく次のことが言える。一つに、ベルリンの壁崩壊前の1980年代に西独で執筆されたベルリン移民史の本格的概説書であるということ。事実究明が主で、近世から近代にかけて「移民」が「住民」へ「同化」する過程を描いているということ。近世においては君主の保護下で移民・難民が共同体を形成し、近代の国民国家的改革によって共同体が解体される過程が示されているということ。その中で、ユグノーは「同化」の「成功例」として当書の第1部を構成している。

 私としては、この文献についてまとめるにあたり次の注目点を挙げておいた。第一に、ユグノーはホスト社会へどのようにして統合されたのか。第二に、難民と現地民との間にどのような問題が生じ、それはどう調整されたのか。第三に、ユグノーはベルリンとプロイセンの経済や文化の発展にどう貢献したのか。第四に、ユグノーが宮廷教師としてホーエンツォレルン君主に及ぼした思想的影響はどの程度のものだったのか。こうした点に着目しつつ、今回は話を進めていきたい。

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1.ユグノー受け入れとそれに伴う諸問題

 16世紀、ヨーロッパでは宗教改革の動きが強まった。ドイツのルターのそれが有名だが、フランスでもスイスのカルヴァンに影響を受けたユグノーたちの改革運動が生じた。フランスでの状況については、 ムールによる研究が詳しく、日本語にも翻訳されているのでそちらを参照されたい(ムール(1990)『危機のユグノー―17世紀フランスのプロテスタント』教文館)。この間、フランス改革派信徒による教会会議体制が確立し、彼らの自治的機能は亡命先でも生きることになる。宗教的のみならず行政的にも自立傾向を示した彼らは、カトリック王権との対立を引き起こすことになる。王権による迫害も強まり、ヴァシーの血浴(1562)やサン・バルテルミの虐殺(1572)などはその有名な例である。カトリック信徒とユグノーは内戦を経て、ようやくナント王令(1598)により地位を確保され、ユグノーへの寛容政策が行われるも、カトリック側がユグノーに不利なようにナント王令の内容を解釈するようになったため、王令は実質的に無効化してしまう。17世紀には改宗工作や強制改宗による信仰統一化が目指され、それと並行してユグノーの国外亡命が大規模ではなくとも増加していった。「絶対主義」の代表的君主として有名なルイ14世(在位1642-1715)がフォンテーヌブロー王令(1685)で国内の人々にカトリックへの改宗を義務付けると、ユグノーは「大脱出」を行った。フランス国内に居た90万人のうち20万人が国外へ違法な亡命をして、そのうち2万人がブランデンブルク=プロイセンへ向かったのである。
 
  では、主要な受け入れ先の一つとなった後進国ブランデンブルク=プロイセンは、当時どのような状況にあったのか。17世紀後半は、戦災復興と中央集権化の時代であった。三十年戦争(1618-1648)による戦場化、大規模な人口移動と人口減少は、ブランデンブルク=プロイセン全体で5割、首都ベルリンでは4割の人口喪失をもたらしていた。そこで、人口を補填するためにも、都市開発のための技術や知識を導入するという意味でも、宗教的少数派の受け入れが行われたのだが、ユグノーもその一例だった。常備軍形成のための税金を巡る中央の君主と領邦議会に議席を持つ地主貴族(等族)との政治闘争、そして君主やその僅かな側近のみがカルヴァン派を奉じ、等族や大多数の臣民がルター派を奉じていたという複雑な状況は、概して「君主vs等族」≒「中央vs地方」≒「カルヴァン派vsルター派」という二項対立を生じさせていた。この対立状況と関連して、君主は自分たちに近しいカルヴァン派官吏を介した中央集権化を図り、その中でカルヴァン派であるユグノーの積極的登用が行われていく。ここで濫発された受け入れ宣言や特権付与は、領邦君主である選帝侯のイニシアティヴで全て行われ、ブランデンブルク選帝侯・プロイセン王の保護下で信仰難民の特権や地位は持続したのである。

 ポツダム勅令が1685年に発布されたことは、ユグノー大規模受け入れの嚆矢となる。同令はユグノーを「同胞」として支援し、彼らとの友好に反する行為を厳禁するというものだった。居住・営業・兵役免除・ツンフト加入などに関する諸特権もユグノーに付与され、貴族出身者にはその地位に相応しい称号や官職、年金を付与することが決められた。勅令の内容が口頭で伝わったこともあり、多くのユグノーがブランデンブルク=プロイセンを目指したといわれる。

 受け入れに伴っては、様々な問題が生じた。ごく簡単にまとめれば、勅令の適用範囲に関する問題(17世紀初頭までの法整備で拡大)、「臣民」としてのユグノーに関する問題(ポツダム勅令では曖昧も、のちに臣民へ統合)、施設利用に関わる問題(ドイツ系信徒と時間割を巡り衝突、君主が介入するも未解決)、貧困に関わる問題(カルヴァン派信徒の献金や宮廷からの援助でカバー)、教育機会に関する問題(フランス人学校設立、フランス人教会の監督と援助に頼る)、教区巡察に関する問題(君主は巡察の遂行を優先、ユグノーの嘆願を退ける)、出自に関する問題(出身地が不明だったところ、17世紀末より証明書類の提出を義務化)といった問題が生じたが、ここには法整備や献金活動によってある程度解決したものと、現地民との衝突を惹起したために根が深くなかなか根本的解決に至らなかったものがあった。

 ユグノーたちはフランス人改革派共同体を受け入れ先で成立させ、その自律性も高かった。以前よりベルリンへ亡命していたフランス人は小規模な居住地を形成していたが、こうした共同体が受け入れ先の基礎を作った。居住地内ではフランス語による礼拝や教会規律の遵守が徹底的になされた(ただし君主は上級宗務局を介して巡察官を派遣し、居住区民の私生活まで宗教倫理的に監督した)。選帝侯・国王はフランス改革派教会唯一の首長としてユグノーを保護・監督することになる。共同体内のフランス人同士の係争事項はフランスの司法でフランス人仲裁判事が処理し、「コミッサリア・フランセ」という役職が中央政府でも設けられ、世俗的な行政の面で君主は間接的に責任を持った。

 しかし、こうした自治的な行政の在り方は、プロイセン国家改革による行政の再編によって変革をなされる。19世紀初頭、ナポレオン戦争で近代化の必要を感じたプロイセンは、シュタイン・ハルデンベルク改革に伴う行政再編で、特権を付与された近世的社団である「国家内国家」を解体した。独自の裁判制度や世俗行政は廃止されたのである。ここで、特権的「臣民」として生きるか、ドイツ人と「同化」するかという論争がユグノー共同体内で起こるが、いずれにせよ保護者であるプロイセン王への忠誠は変わらなかったのだ。

2. ベルリンのドイツ人とフランス人

 ユグノーは1699年までに13,847人がプロイセン領へ到来し、そのうち8,622人がベルリンへ定住したとされる。受け入れ開始から1701年までユグノーは増加傾向にあり、最大時には都市人口の四分の一になった。ベルリン全体の人口増加は続くが、1701年以降ユグノーは相対的に減少傾向にあった。18世紀末までにはユグノーの絶対数も減少し、都市人口の5%を下回った。

 現地民との融和の具合を見る上で分かりやすい指標になるのは、ユグノーと現地民との通婚率であろう。ユグノーはベルリンの都市部に集住したことから現地民との接触が多く、都市部から外れた地域にユグノーが集住していたヘッセンとは対照的だった。16761812年にベルリン在住のユグノーの婚姻率は拡大し、特に第三世代よりドイツ語の普及とともに混血婚が増加した。混血婚に際して名士連が仲介者となったヘッセンと対照的に、ベルリンでは階層間の相違が無かったとされる。ユグノーと結婚したドイツ人はユグノー共同体に加入し、特権に与ることができたため、このことが混血婚を推進する要因になったのではないかということも指摘されている。

 ベルリン市街区におけるユグノーの生活・居住拠点としては、17世紀に新設された新街区が中心となった。新街区に多くのユグノーが定住し、三十年戦争で空き家となった家々もユグノーに分配された。奢侈品の需要が高い宮廷の付近にはユグノー系手工業者による工房が存在していたことも、居住地域の傾向だった。例えば、ベルリン在住ユグノーの三分の一はドロテーンシュタット地区に居住し、同地が自治権を得るとユグノー出身のランボネやフールノルが区長に就任した。フリードリヒシュタット地区にもユグノーが多く定住し、経済活動の中心となった。同区には1705年に最初のユグノー独自教会であるフランス大聖堂が設立されている。比較的ユグノーの少ないフリードリヒスヴェルダー地区には官吏や学者が居住し、同区はフランス人宗務局やフランス人裁判所の存在でユグノーの行政的中心となった。

 ドイツ人とフランス人との共生における問題は数多くあったが、目ぼしいのは貧民救済に関する問題だった。当初、貧しいユグノーのために募金活動がなされるも、異郷からの新奇な人々に対する市民の態度は冷淡であり、中央政府の意向による強制献金もなされるほどだった。また、食料品がユグノーの支援に充てられて物価が高騰し、このことは現地民の不満を惹起した。教会施設の利用に関する衝突もあり、ルター派牧師がユグノーとの教会の共同利用を拒んだ例も報告されている。しかし、当書ではこれらはあくまで「初期障害」とされ、18世紀を通してユグノーに対する不信は消えていったと結ばれている。
 
3. ベルリン経済におけるユグノー

 ユグノー受け入れの都市となった1685年のベルリン経済の構造は、農業が優位を占め、市民層が育っておらず、商業活動は宮廷からの支援が不可欠だった。また、三十年戦争で多くの商工業者が消滅し、国内市場の貧弱さも際立っていた。

 こうした状況にあって、ユグノーは職業身分的に現地の社会へ統合され、経済発展の動力となる。ベルリンの手工業は当時ツンフトという同業組合により担われていたが、ユグノーは特権を享受しツンフト加入を認められる。しかし、現地の手工業者は特権的なユグノーの参入に反対して選帝侯に苦情を訴え、ユグノーには過大な加入条件が課されることにもなった。ユグノーの中には免税期間に独自のイヌング(ツンフトとは別形態の同業組合)を設立し、主に靴下・手袋・皮革を製造して、現地民とは別の商業領域に属するようになった者も少なくなかったが、競争的なイヌングは政府から統制的な経済政策の障害とされ、現地民との共同経営が推奨された。共同経営が普及する中、女性・児童労働などに関して慣習を巡る衝突があった一方、フランス人によるドイツ人への技術伝播が進んだ。移民に対するルサンチマンにもかかわらず、職業身分の上でもユグノーの統合が進んだのだ。ユグノーの技術的優位はその技術伝播によって消滅し、ルサンチマンも影を潜める。

 経済的な革新活動も、ユグノーたちによってなされた。新奇な製品や産業部門、新しい組織形態の導入は、16761756年にかけてユグノーの三分の一が産業部門に従事していたことから、プロイセンの産業に実りをもたらした。同じ頃、産業部門に従事したユグノーの三分の二は繊維・衣類産業に従事していたといわれる。様々な失敗を繰り返しながらもユグノーの経営者が多くのマニュファクチュアを経営していたのである。

 ユグノー企業家への特権付与と助成も、以上のような活動を促進した。期限付きの免税特権などに加え、起業のための前貸し金や助成金がユグノー企業家を助けた。また、関税や間接国税、輸入規制による国内産業保護政策も、外国製品との競争を回避することに功を奏した。ユグノーの繊維・衣類業者は、宮廷や軍隊が大口顧客となることで安定した収入を確保する。このことは、ユグノーの活動が王侯貴族の奢侈や国家的な軍需と密接に結び付いていたことの証左でもある。ただし、国家による支援は国家による監督と表裏一体だった。統合的な国家の経済政策への組み入れは、難民であったユグノーを「一般市民」にしたのだという。

4. ベルリンの文化生活におけるユグノー

 ユグノーのアイデンティティを考える上で分かりやすい指標は、彼らの母語であったフランス語の使用である。ユグノーは高地フランス語を話し、方言の多いカトリックとは対照的に言語的統一性を形成していた。洗練されたフランス語に熟達したことは、ユグノーたちの威信を高めた。また、ユグノーのベルリンへの流入により、フランス語由来の単語や慣用句が生まれた。一方でユグノー・フランス語にはドイツ語に由来する語彙も入り込んだ。18世紀にドイツ化が進み、フランス語は礼拝用言語としてのみ使われるようになっても、ユグノーのフランス語文化への執着は強く、フランス人学校でのフランス語授業は残存する。だが、19世紀に入ると姓名のドイツ化も始まり、ユグノー・フランス語は日常から消滅した。

 ユグノーは言語文化のみならず、政治思想などの面でも影響を及ぼした。ホーエンツォレルン宮廷で王子の教育者として雇われたユグノーたちがそれである。16941814年までホーエンツォレルン君主はユグノーの宮廷教師を迎えていた。マルト・ド・ロクール(フリードリヒ・ヴィルヘルム1世とフリードリヒ2世の養母)やジャック・エジド・デュアン・ド・ジャンダン(フリードリヒ2世の教師)が有名な事例である。養母はフランス式の躾を、教師は政治教育や古典教育を施した。特にデュアンは「大王」と呼ばれるフリードリヒ2世へ啓蒙思想を伝え、ヴォルテールの著作に親しませた。フリードリヒ2世よりのちはカルヴァン派の宗教教育が廃止され、国内他宗派への「寛容」な態度を教育するようになった。

 最後のユグノー教師は、ジャン・ピエール・フレデリク・アンシヨンである。彼はのちに1848年革命に直面することになるフリードリヒ・ヴィルヘルム4世を教育し、文学に熟達していたことから、個人的な友人であったユグノー作家フリードリヒ・フーケー(元プロイセン軍将校で、ライン川のローレライ伝説をモデルとした小説『ウンディーネ』の作者)も紹介している。ただしアンシヨンは良くも悪くも前時代的な人物だとの評価が強かった。つまり、彼は「啓蒙思想の落とし子」であって「革命家」ではなく、「世界市民」であって「ナショナリスト」ではなかったのである。また当時、王子の教師を務めた人間は他にもおり、その中には後世に名を残すことになる戦争学者シャルンホルストや法学者サヴィニーらが含まれ、彼らに引けを取っていた。とはいえ5代にわたる君主たちがユグノー教師からフランスの母語とフランスの交際形式を学んだことは事実である。彼らが当時のフランスの政治・哲学・文学に精通できたのはユグノー教師のお陰であり、こうしてプロイセン宮廷は18世紀ヨーロッパのあらゆる宮廷の中で「最もフランス的」となった。フランス文化は、プロイセン国家における一流の文化として浸透したのである。

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 以上が概要であるが、最初に挙げた注目点に即して、ここでまとめを記しておきたい。

 第一に、ユグノーはホスト社会へどのようにして統合されたのか。彼らはやがて国王への臣従礼を義務付けられ、書類上は「プロイセン臣民」になる。市民間では、都市部ゆえの接触の多さから各階層で混血婚が拡大し、ドイツ語の普及と姓名のドイツ化が生じていく。経済的にも、国家主導の経済政策により職業身分的にユグノーを現地の社会へ統合することが行われ、これは高い程度で成功したものと考えられる。ただし、不信や嫉妬による「初期障害」が取り除かれた過程については、少なくとも当文献に限っては説明が十分でない。
 
 第二に、難民と現地民との間にどのような問題が生じ、それはどう調整されたのか。問題の性質を三つに大別すると、次のようになる。まず、法整備の不十分さから生じた問題は、18世紀初頭までの法整備により大部分は解決されていく。次いで、貧困や教育機会に関する問題は、国内外の信仰同胞や宮廷の支援、教会のイニシアティヴにより対処され、ある程度はカバーできた。そして、現地民との衝突については、概して信徒間の衝突が19世紀まで続く一方、市民間では良好な関係が次第に構築されていくということになる。ここで注目すべきは、宮廷を中心とする世俗権力がユグノーの保護と現地民との融和に尽力していたことである。社会がある種混沌とした状況において世俗権力がどういった役割を果たし得るかということについて、示唆的な歴史がここにある。

 第三に、ユグノーはベルリンとプロイセンの経済や文化の発展にどう貢献したのか。新奇な製品や生産方式を導入し、特に繊維・衣類産業においてドイツ人へ技術を伝えた。市民層へのフランス文化の流入やフランス人による王子の教育と思想伝播も、彼らの貢献度合いを示すものとして遜色ない。ここでは、こうした役割が、難民救済というよりもホーエンツォレルン君主による計画的なユグノーの「動員」という政策の中で期待されていたことを強調しておきたい。ただし、当文献ではプロイセン興隆に果たしたユグノーの役割を高く評価しているが、ユグノーの役割に対する評価は過大との声もある。プロイセンの発展ありきで神話的にユグノーの役割を強調する叙述は戒められねばならず、亡命ユグノーの問題を考えるにあたっては気を付けておきたい。


 第四に、ユグノーが宮廷教師としてホーエンツォレルン君主に及ぼした思想的影響はどの程度のものだったか。彼らは17世紀末から19世紀初頭までフランス流の教養を諸君主に授けた。特に啓蒙君主フリードリヒ2世に対するデュアンの影響は大きかったとされる。昨年に山川出版社から出た屋敷二郎(2016)『フリードリヒ大王』にもそのような記述がある。因みに、この文献もいずれ取り上げるつもりである。またフランス文化を好んだ同王の周囲にはユグノーが多かったことは、数々のフリードリヒ2世伝でも指摘されているところである。ただし、彼らの「教養」には時代的制約があり、近代化の過程でお役御免となった。19世紀は、啓蒙主義ではなくナショナリズムの時代だった。それでも、18世紀にはユグノー教師は君主から敬意を向けられ、宮廷で強いプレゼンスを築いていたのである。

 次回の文献紹介は永田諒一(2004)『宗教改革の真実』(講談社現代新書)です。


2017年10月10日火曜日

2017年10月10日(火)

久し振りに長文を書いた。

書く内容は分かっていても、いざ書くとなれば時間がかかる。

時間的な余裕はやはり重要なり。

2017年10月9日(月)

何事も程々が良いというのは一理ある。

2017年10月8日日曜日

2017年10月7日(土)

やはり時間には余裕を持つものである。

今日は、ゆったりとした時を過ごした。

そのお陰で疲労も回復したし、心地良い眠気が漂う。

人生を快適に過ごす秘訣は、時間と精神の余裕を確保することだろう。

2017年10月6日金曜日

2017年10月6日(金)

卒業論文もこれからが正念場か。

膨大な知識を頭の中に無理矢理詰め込み、それを自分の言葉で紡がねばならぬ。

夕方頃からは梅田へ向かい、某協会の定例会合に参加。

思わぬところで大先生に出会い、分からぬものだなぁという毎日だ。