2018年6月23日土曜日

一週一論:ハインツ=ディーター・ハイマン「要求・神話・否認の間のブランデンブルク的寛容」(ドイツ語論文)

 今回紹介する論文は『宗教・精神史雑誌(Zeitschrift für Religions- und Geistesgeschichte)』という学術誌に収録されているハインツ=ディーター・ハイマン「要求・神話・否認の間のブランデンブルク的寛容(Brandenburger Toleranz zwischen Anspruch, Mythos und Dementi)」です。

『宗教・精神史雑誌』についてはこちら。

 この論文はフランスからの難民、すなわちフランス王権から迫害を受けていたカルヴァン派信徒の亡命を受け入れることを決めたブランデンブルク=プロイセンのポツダム勅令について、それが後世に神話化したことを扱ったものです。このポツダム勅令については、つい最近になって日本語版のウィキペディア記事が作成されました。

ポツダム勅令についてのウィキペディア記事はこちら。

 1685年に発布された「ポツダム勅令」は公布以来、ブランデンブルクとプロイセンにおける寛容の歴史と特に結び付き、「文化間対話(Dialog zwischen Kulturen)」の実際的な文脈と関連付けられてきました。件の勅令はブランデンブルク=プロイセン領邦史にとって包括的な意義を有しているされています。というのも、その勅令の要求する他者の受容や寛容といったものが、18~19世紀における憲法の発達にも作用したからです。しかし筆者は、どのような寛容がこの勅令で本来的に定義され、誰によりそれが請求されたのかということを問題としています。またブランデンブルクにおける宗教的寛容の歴史がこの勅令から始まったのだとしても、この勅令の意識的な利用はどのように推奨されたのか、そして今日の寛容概念はそれぞれどの点において区別されるのかということにも目を向けなければならないと言います。

 そもそも筆者によれば、ブランデンブルクにおける宗教的寛容の歴史は「ポツダム勅令」によって始まったわけではないそうです。ここで筆者は宗教改革期以来の宗派間の駆け引きや17世紀前半に始まったブランデンブルク=プロイセンの宗派政策を挙げて、「ポツダム勅令」の相対化作業を行っています。また「ポツダム勅令」という題の命令は実際には存在しないと言います。というのも件の勅令は「選帝侯殿下(中略)が領内へ定住することになるフランス人福音主義改革派信徒に慈悲深くもお許しになることをお決めになった、権利、特権、その他恩恵に関するブランデンブルク選帝侯令」という名称であり、「ポツダム勅令」というのはこの勅令が発された場所に由来する俗称だというわけです。

 筆者は「ポツダム勅令」が発布される過程にも注目します。ブランデンブルクの「大選帝侯」フリードリヒ・ヴィルヘルムは、1685年10月18日のフォンテーヌブロー勅令でナント勅令が撤回され、フランスからユグノーが大量に国外逃亡してくるという事態に対し、難民受け入れの意思を表明します。それが「ポツダム勅令」なのですが、こうした対応はイングランドやネーデルラントや他のドイツ系領邦と全く同じというわけではありませんが似たようなものでした。例えばヘッセン=カッセル伯カールは「ポツダム勅令」よりも半年以上早く4月18日に勅令を出しており、同じ年にブランデンブルク=バイロイト辺境伯クリスティアン・エルンストやツェレ=リューネブルク公ゲオルク・ヴィルヘルムも類似の勅令を出しました。筆者はこの文脈を考慮するならば「ポツダム勅令」は何ら特異なものではないとし、プロテスタント系選帝侯家の打算的な受け入れ政策と評価され得るとしています。17世紀前半の三十年戦争で多くの人口を失い、重商主義のため多くの担税能力者を必要としたドイツ系諸領邦では「人口増進(Peuplierung)」が企てられ、世紀半ばからはユグノーに加えてユダヤ人やメノー派信徒が領内に、ブランデンブルクでは特にベルリン周辺へ定住しました。筆者は「ポツダム勅令」ではこの政策が行われたのであると言い、人口増加政策は寛容政策と必ずしも混同されるべきではないと主張します。

 では曲がりなりにも表向きには保証された「寛容」はエリート層よりも低い水準の世界ではどのように是認され、一般の領民はどの程度寛容だったのかということが問いかけられます。「ポツダム勅令」は信仰や礼拝の自由をユグノーに認め、約2万の難民が次々とケーニヒスベルク、フランクフルト、ベルリン、ブランデンブルク、ミンデン、ゾースト、クレーフェなどの地域に定住したと計上されています。その移住先は空き家や荒れた敷地であることが多かったそうです。移住に際しては「ポツダム勅令」の枠組みに基づく国家からの財政援助があり、都市や村落には新しい居留区が形成されます。しかし当時のベルリン人の証言によれば、ユグノーは長い間故郷へ帰るという望みを持っていたようで、1696年10月にはベルリンではユグノーの帰郷を準備する委員会が設立されています。一方では強制的な送還計画や、南フランスにおける特別国家の計画が大真面目に検討されていました。難民と他集団との間にも最初から摩擦が無かったわけではなく、文化間の寛容は遠い道だったと筆者は言います。当時の史料によるとユグノーの話すフランス語や、見慣れない外国風の衣服、そしてその振る舞いが現地人の反感を呼んだとされ、現地人に呼びかけられた難民への義捐金も集まらなかったそうです。1686年には選帝侯がこの状況を見て、市民からの強制献金を命じています。

 とはいえこの状況はやがて改善し、ユグノーの統合は疑いなく長い期間をかけて経済的にも社会的にも成功したと筆者は言います。私の意見としては、この論文の筆者を含めて従来の亡命ユグノー史研究者はその改善の過程が上手く描出できていないのではないかと考えています。まあ史料的にも難しいからということもあるのでしょうが。

 商工業者を多く含むユグノーの難民集団は、ブランデンブルク=プロイセン地方に新しい職業や商業の部門を持ち込みました。しかし現地の手工業者はユグノーの参入に反発し、自らの特権を守ろうとしました。職場レヴェルではユグノーが女性や子供を働かせることに反感が抱かれ、現地の社会的・経済的慣習と特有の文化が組み合わせが噛み合わないということがよくありました。ですが経済的な競争相手を排除しようという動きは18世紀頃、別の形をとり始めます。この頃、フランス人とドイツ人の商人は、ユダヤ人商社に先んじるために協力していくことになったのです。

 さてブランデンブルクにおけるユダヤ人の状況は、国家的に保証された宗教的寛容の文脈と少しばかり比較できる関係にあると筆者は言います。宗教改革期におけるブランデンブルク辺境伯領からのユダヤ人の強制追放の後、1670年代から再びユダヤ人の受け入れが行われました。1671年のユダヤ人移住と1685年の「ポツダム勅令」で与えられた特権は、比較すればその違いが明らかとなります。ユグノーはユダヤ人とは異なり無制限の定住権を持ち、そのうえ物的な支援も受け、期限付きながらほぼ恒久的な免税や法的な自律性も享受しました。一方、ユダヤ人の移民に対しては経済功利的な理由からの限定的な許可しか与えられませんでした。代理人が彼らに入国許可証の代金を払ってくれることも無く、彼らが費用負担無しで宿を得るということもありませんでした。ユダヤ人がシナゴーグで礼拝を行うことも禁止されました。18世紀初頭にユグノーのためにフランス人独自の教会が建てられていることを考えると、その待遇は対照的です。

 当時の国家理念は宗教よりも商業に拘り、その結果として様々な社会集団が法的な寛容空間で併存したのだと筆者は言います。筆者によれば、「ポツダム勅令」の寛容構想がそのまま近代憲法の原則になったわけではなく、件の勅令は飽くまで当時の文書に過ぎないそうです。しかしだからこそ、歴史上の「寛容」は時代や社会に変化してゆく価値を獲得し、その都度に国家や政治や教会に対する理解も示されてきたのだと言います。

 現代的な移民・難民問題の文脈で語られがちなポツダム勅令の評価ですが、この論文でなされたのは、当時の文脈を考慮してみると必ずしも現代的な「寛容」の文脈で語ることはできないという議論ですね。ただし筆者はポツダム勅令の寛容史的な意義を強く否定することは無く、後世の人々が寛容令の意味を積極的に読み替えていったことを示すに止まっています。そういえば日本でも深沢克己先生がナント王令を巡る動向を事例に「近世フランス史における宗教的寛容と不寛容」という論文で似たような議論を展開しています。この論文は、東京大学出版会の『信仰と他者』という論文集に収録されています。ただし、ハイマン先生が当時の具体的な状況を詳細に取り上げながら論証しているのに対し、深沢先生はナント王令の記念を巡る学界の論争を主に扱っています。

 「寛容」をいつどこでも通じる普遍的な概念として適用するのか、そうではない限定的な概念として適用するのかといった問題には、政治的・学術的・宗教的立場から様々な意見が投げかけられていくことでしょう。私は「寛容」という概念を如何なる場合にも適用してしまうことには懐疑的ですし、少なくとも現在の歴史学研究者で「寛容」概念の無制限な適用を主張する人はまず居ないでしょう。そう考えると、問題はそうした概念や出来事の読み替えを見苦しい「欺瞞」と見るのか、積極的な「再定義」と見るのか、こういった解釈の違いです。読み替えを「欺瞞」と切り捨ててしまえばそれで終わりですが、そこに積極的な意義を見出すならば更なる探究の道は拓かれましょう。一方、そうした現在からの過去の「再定義」は過去を参照することで自らの主張を支えることができなくなった論者の姑息な「戦略転換」であると批判することも可能でしょう。こうした板挟みは、時代遡及的解釈に対する批判と共に、私を含めた歴史学徒を常に悩ませています。

2018年6月2日土曜日

一週一論:ヴィヴィアネ・ローゼン=プレスト「ポール・エルマン:独自の道を辿ったフランス人居留区の後裔」(ドイツ語論文)

 今週からは欧語論文の紹介を行いたいと思います。今回扱うのは、ヴィヴィアネ・ローゼン=プレスト「ポール・エルマン:独自の道を辿ったフランス人居留区の後裔」です。これは日本語訳の無いドイツ語論文で、2005年に出版された以下の論文集に収められています。


 この論文は、近世から近代への移行期にベルリンで活動したポール・エルマン(1764-1851)というユグノー系プロイセン人を取り上げることで、フランス人とドイツ人との間で揺れた亡命ユグノーの子孫のアイデンティティを考察するという試みです。筆者によれば、亡命ユグノー研究の取り組みは難民第三世代まで対象を広げながらも、第四世代はあまり取り扱われてこなかったのだといいます。この世代に属するのが、ベルリンの物理学者ポール・エルマンです。彼は子供時代を栄光あるフリードリヒ大王の時代に過ごし、解放戦争と1848年革命という波乱の時期を経験して死去しました。

 ユグノーの同化に関する有名な論文として、ポツダム勅令300周年の1985年に書かれた、エティエンヌ・フランソワ先生の「プロイセン愛国者からもっと良きドイツ人へ」という論文があるのですが、こうした議論が説得力を持つとはいえ、これより複雑な人生を歩んだユグノーもいました。19世紀前半の亡命ユグノー社会の展開が一定の形をとってのみ進んだわけではないということを示してくれる人物が、ポール・エルマンです。

 文献状況についても論文の冒頭で述べられていて、散逸したもの以外にはポールの孫で司書のヴィルヘルム・エルマンが書いた伝記と、その兄弟のエジプト学者アドルフ・エルマンによる家族回想録(1927年版と1929年版)があるそうです。因みに、このアドルフ・エルマンは先祖にユダヤ人がいたために、ナチ政権下で大学教員の職を追われています。何故ユダヤ人が祖先にいたのかということは、今回の論文にも関わってきます。またベルリン州立図書館のダルムシュテット資料室には膨大な書簡が収められているうえ、ポールの書いた日記と学術論文が現存しているそうです。

 ポールは宗教的寛容と「理性」を旨とするベルリン啓蒙主義の代表者だったそうで、彼の思想もその強いユグノー・アイデンティティも、父ジャン・ピエールの教育から影響されたそうです。ポールの兄ジョルジュ(1762-1805)はポツダム・フランス人教会の説教師になっています。父はフランス人居留区に属しながら視野狭窄な人間にはならず、シャミッソー家など、自らの祖先を迫害したカトリックの子孫であるフランス革命からの亡命者たちを暖かく迎えています。

 そのような環境に育ったポールは数年間の教職活動を経て、1791年に名誉ある哲学正教授の席を得ました。前任はあの『百科全書』の執筆にも関わったサミュエル・フォルメです。ポールは哲学講座に自然科学を導入し、選択講座として実験物理学を導入して、当時まだ新しかったカント哲学をもその講座に導入します。このようにポールは自然科学や哲学に通じていたために、ユグノー居留区の枠を越えて広い人的関係を築き、ドイツ人のキリスト教徒や、ユダヤ系ブルジョワジーとも広い交流関係を築くことになります。

 彼が居留区から自立的な道を歩んだのはその結婚計画に明らかであると筆者は言います。ポールは38歳で嫁探しをしましたが、その対象はフランス人居留区の中だけではなく、ドイツ人の知り合いの中にもありました。遂に彼はユダヤ人にも花嫁を求め、有名なユダヤ人銀行家ダニエル・イッツィヒの孫であるカロリーネと結婚し、彼女は結婚式直前に兄のジョルジュによるキリスト教の洗礼をポツダムで受けることになりました。

 筆者はこれについて、どうしてエルマンはイッツィヒ家から花嫁を得ようとしたのだろうかと問いを立てています。筆者によれば、ポールがカロリーネの可憐さと聡明さに惹かれたという想定は疑わしいようです。この夫婦の関係は良好で安定していたそうですが、カロリーネとりわけ才知に富んでいたわけでも、美しかったわけでもなかったようです。筆者は、ポールの生きた、洗練され開放的な環境がそうさせたのではないかと想定しています。

 さて、先述した1985年のフランソワ論文によれば、19世紀のユグノーはフランス人としての出自を誇る一方で、「真の」フランス人が移民なのかナポレオンの兵士なのかで厳しく区別し、かつ「最も良きドイツ人」になろうとして氏名をドイツ語化し、フランス語使用を拒んだとされています。しかし、ポールはそれとはやや異なる道を辿ったのではないかと筆者は言います。ポールは電気に関する論文で表彰され、1806年12月には市民権を得ています。これはプロイセンが屈辱的な敗北を喫したイェーナの戦いから約2ヶ月後のことでした。この頃を含めて暫くの間、一文字の差ではありますが彼は自分の苗字をフランス語名の「エルマン(Erman)」からドイツ語名の「エルマン(Ermann)」に改めようと考えていたそうですが、実際、1804年から1812年に書かれた彼の日記は、徐々にドイツ語による記述へと移行していったそうです。

 ポールは一人息子のジョルジュ・アドルフ(1806-77, のちゲオルク・アドルフと改名)に大きな期待を寄せ、彼をドイツ人として教育することにしたそうです。1811年の春、ジョルジュ・アドルフはスポーツ愛国者で「体操の父」として有名なヤーンの訓練に参加し、1812年にはドイツ人の学校へ入学しました。ですがその後、父は彼をプロイセンのフランス人学校であるコレージュ・フランセへ送り、フランス語による教育を受けさせました。一方で1813年、49歳のポールはフィヒテ、シュライヤーマッハー、そして他の大学教授と共に兵役を経験し、ベルリン市門に堡塁を増設する作業へ参加しました。そのうえ彼は戦争未亡人や戦争孤児を援助するために声明も出し、エルマン家は戦争支援のため銀製器を提供します。

 1828年にジョルジュ・アドルフ改めゲオルク・アドルフが地磁気研究のためロシアとシベリアへ向かうノルウェー船で旅立つと、ポールは当初フランス語で息子に手紙を書きました。ドイツ語よりもフランス語の方が人口に膾炙していたので、検閲の通過が速いと考えられたからです。しかしポールは手紙の言語をドイツ語に変えてしまいます。その理由は、フランス語は「皮相と諷刺を表現するには実に相応しい手段(ein gar geeignetes Vehikel der Oberflächlichkeit und der Persiflage)」だからだというものでした。これをもって筆者は、ポールが当時流行していたフランス人に対する偏見を内面化していたのだと主張します。しかし一方で、ポールは1830年でも亡命ユグノー家系の名士であるフレデリク・アンシヨンからの手紙にはフランス語で返しており、必ずしもドイツ化一辺倒ではなかったようです。

  筆者は、ポール・エルマンは複雑な人間だったと強調し、ポール・エルマンの伝記に関する既存の見取り図については、更に活発な研究が望まれると言います。ポール・エルマンに関する研究は、ユグノー系自然科学者が同僚や俗人との接触を通じてどのように文化的な媒介者としての役割を果たしたのか、またユグノーであるエルマンがユダヤ系のイッツィヒ家に暖かく迎えられたのは他のマイノリティの代表者だったからなのか、あるいは名望ある学者だったからなのかということを解明するのも、これからの課題だとしています。

 この論文では答えというよりも、ポール・エルマンという人物を題材に多くの問いが立てられているようです。ポールが使用言語をフランス語からドイツ語へと移行させていった事実を見れば、「言語転換から見たエゴ・ドキュメント」という研究もできそうですね。しかしこれまでの研究蓄積に鑑みても、多くのプロイセン・ユグノーが現地社会と同化していく傾向にあったということは否定できませんし、「ユグノーのドイツ化」という「大きな物語」を個別事例による反証で相対化する筆者の作業には、限界があるかもしれません。