2018年6月2日土曜日

一週一論:ヴィヴィアネ・ローゼン=プレスト「ポール・エルマン:独自の道を辿ったフランス人居留区の後裔」(ドイツ語論文)

 今週からは欧語論文の紹介を行いたいと思います。今回扱うのは、ヴィヴィアネ・ローゼン=プレスト「ポール・エルマン:独自の道を辿ったフランス人居留区の後裔」です。これは日本語訳の無いドイツ語論文で、2005年に出版された以下の論文集に収められています。


 この論文は、近世から近代への移行期にベルリンで活動したポール・エルマン(1764-1851)というユグノー系プロイセン人を取り上げることで、フランス人とドイツ人との間で揺れた亡命ユグノーの子孫のアイデンティティを考察するという試みです。筆者によれば、亡命ユグノー研究の取り組みは難民第三世代まで対象を広げながらも、第四世代はあまり取り扱われてこなかったのだといいます。この世代に属するのが、ベルリンの物理学者ポール・エルマンです。彼は子供時代を栄光あるフリードリヒ大王の時代に過ごし、解放戦争と1848年革命という波乱の時期を経験して死去しました。

 ユグノーの同化に関する有名な論文として、ポツダム勅令300周年の1985年に書かれた、エティエンヌ・フランソワ先生の「プロイセン愛国者からもっと良きドイツ人へ」という論文があるのですが、こうした議論が説得力を持つとはいえ、これより複雑な人生を歩んだユグノーもいました。19世紀前半の亡命ユグノー社会の展開が一定の形をとってのみ進んだわけではないということを示してくれる人物が、ポール・エルマンです。

 文献状況についても論文の冒頭で述べられていて、散逸したもの以外にはポールの孫で司書のヴィルヘルム・エルマンが書いた伝記と、その兄弟のエジプト学者アドルフ・エルマンによる家族回想録(1927年版と1929年版)があるそうです。因みに、このアドルフ・エルマンは先祖にユダヤ人がいたために、ナチ政権下で大学教員の職を追われています。何故ユダヤ人が祖先にいたのかということは、今回の論文にも関わってきます。またベルリン州立図書館のダルムシュテット資料室には膨大な書簡が収められているうえ、ポールの書いた日記と学術論文が現存しているそうです。

 ポールは宗教的寛容と「理性」を旨とするベルリン啓蒙主義の代表者だったそうで、彼の思想もその強いユグノー・アイデンティティも、父ジャン・ピエールの教育から影響されたそうです。ポールの兄ジョルジュ(1762-1805)はポツダム・フランス人教会の説教師になっています。父はフランス人居留区に属しながら視野狭窄な人間にはならず、シャミッソー家など、自らの祖先を迫害したカトリックの子孫であるフランス革命からの亡命者たちを暖かく迎えています。

 そのような環境に育ったポールは数年間の教職活動を経て、1791年に名誉ある哲学正教授の席を得ました。前任はあの『百科全書』の執筆にも関わったサミュエル・フォルメです。ポールは哲学講座に自然科学を導入し、選択講座として実験物理学を導入して、当時まだ新しかったカント哲学をもその講座に導入します。このようにポールは自然科学や哲学に通じていたために、ユグノー居留区の枠を越えて広い人的関係を築き、ドイツ人のキリスト教徒や、ユダヤ系ブルジョワジーとも広い交流関係を築くことになります。

 彼が居留区から自立的な道を歩んだのはその結婚計画に明らかであると筆者は言います。ポールは38歳で嫁探しをしましたが、その対象はフランス人居留区の中だけではなく、ドイツ人の知り合いの中にもありました。遂に彼はユダヤ人にも花嫁を求め、有名なユダヤ人銀行家ダニエル・イッツィヒの孫であるカロリーネと結婚し、彼女は結婚式直前に兄のジョルジュによるキリスト教の洗礼をポツダムで受けることになりました。

 筆者はこれについて、どうしてエルマンはイッツィヒ家から花嫁を得ようとしたのだろうかと問いを立てています。筆者によれば、ポールがカロリーネの可憐さと聡明さに惹かれたという想定は疑わしいようです。この夫婦の関係は良好で安定していたそうですが、カロリーネとりわけ才知に富んでいたわけでも、美しかったわけでもなかったようです。筆者は、ポールの生きた、洗練され開放的な環境がそうさせたのではないかと想定しています。

 さて、先述した1985年のフランソワ論文によれば、19世紀のユグノーはフランス人としての出自を誇る一方で、「真の」フランス人が移民なのかナポレオンの兵士なのかで厳しく区別し、かつ「最も良きドイツ人」になろうとして氏名をドイツ語化し、フランス語使用を拒んだとされています。しかし、ポールはそれとはやや異なる道を辿ったのではないかと筆者は言います。ポールは電気に関する論文で表彰され、1806年12月には市民権を得ています。これはプロイセンが屈辱的な敗北を喫したイェーナの戦いから約2ヶ月後のことでした。この頃を含めて暫くの間、一文字の差ではありますが彼は自分の苗字をフランス語名の「エルマン(Erman)」からドイツ語名の「エルマン(Ermann)」に改めようと考えていたそうですが、実際、1804年から1812年に書かれた彼の日記は、徐々にドイツ語による記述へと移行していったそうです。

 ポールは一人息子のジョルジュ・アドルフ(1806-77, のちゲオルク・アドルフと改名)に大きな期待を寄せ、彼をドイツ人として教育することにしたそうです。1811年の春、ジョルジュ・アドルフはスポーツ愛国者で「体操の父」として有名なヤーンの訓練に参加し、1812年にはドイツ人の学校へ入学しました。ですがその後、父は彼をプロイセンのフランス人学校であるコレージュ・フランセへ送り、フランス語による教育を受けさせました。一方で1813年、49歳のポールはフィヒテ、シュライヤーマッハー、そして他の大学教授と共に兵役を経験し、ベルリン市門に堡塁を増設する作業へ参加しました。そのうえ彼は戦争未亡人や戦争孤児を援助するために声明も出し、エルマン家は戦争支援のため銀製器を提供します。

 1828年にジョルジュ・アドルフ改めゲオルク・アドルフが地磁気研究のためロシアとシベリアへ向かうノルウェー船で旅立つと、ポールは当初フランス語で息子に手紙を書きました。ドイツ語よりもフランス語の方が人口に膾炙していたので、検閲の通過が速いと考えられたからです。しかしポールは手紙の言語をドイツ語に変えてしまいます。その理由は、フランス語は「皮相と諷刺を表現するには実に相応しい手段(ein gar geeignetes Vehikel der Oberflächlichkeit und der Persiflage)」だからだというものでした。これをもって筆者は、ポールが当時流行していたフランス人に対する偏見を内面化していたのだと主張します。しかし一方で、ポールは1830年でも亡命ユグノー家系の名士であるフレデリク・アンシヨンからの手紙にはフランス語で返しており、必ずしもドイツ化一辺倒ではなかったようです。

  筆者は、ポール・エルマンは複雑な人間だったと強調し、ポール・エルマンの伝記に関する既存の見取り図については、更に活発な研究が望まれると言います。ポール・エルマンに関する研究は、ユグノー系自然科学者が同僚や俗人との接触を通じてどのように文化的な媒介者としての役割を果たしたのか、またユグノーであるエルマンがユダヤ系のイッツィヒ家に暖かく迎えられたのは他のマイノリティの代表者だったからなのか、あるいは名望ある学者だったからなのかということを解明するのも、これからの課題だとしています。

 この論文では答えというよりも、ポール・エルマンという人物を題材に多くの問いが立てられているようです。ポールが使用言語をフランス語からドイツ語へと移行させていった事実を見れば、「言語転換から見たエゴ・ドキュメント」という研究もできそうですね。しかしこれまでの研究蓄積に鑑みても、多くのプロイセン・ユグノーが現地社会と同化していく傾向にあったということは否定できませんし、「ユグノーのドイツ化」という「大きな物語」を個別事例による反証で相対化する筆者の作業には、限界があるかもしれません。










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