2017年12月2日土曜日

文献紹介:山崎彰『ドイツ近世的権力と土地貴族』

 今回扱う文献は、山崎彰『ドイツ近世的権力と土地貴族』である。これは、近世ブランデンブルクにおいて土地貴族の占めた位置を検討することを目的とした研究所である。著者は貴族の地域行政への関わりが疎遠となることに革命の原因を見出すという視点をある程度受け継いだ上で、紛争や抵抗をも内包した「秩序」の下での土地貴族の調整的役割に重点を置いている。

   ここで、著者は近世ブランデンブルク史を五つに時代区分している。第一局面は、15世紀初頭のホーエンツォレルン朝成立から15世紀までの回復局面。第二局面は、15世紀末から16世紀末までの好況局面、最初の発展・安定期。第三局面は、16世紀から17世紀への転換期から三十年戦争までの後退局面。第四局面は、三十年戦争終了から1720年代までの回復局面、すなわち絶対主義国家の形成期。第五局面は、1730年代から1806年のイェナ・アウエルシュテット敗戦までの好況局面。このような時代区分を基礎として、プロイセン史の序章として語られがちだったブランデンブルク史がプロイセン史とは異なった枠組みの中で論じられることとなる。

 近世ブランデンブルクにおける農民と領主との関係は抑圧的なものだったのだろうか。権力エリートであることと領主であることという二重性はどのようにして乖離したのだろうか。権力構造の変遷において宗派対立はどのような影響を及ぼしたのだろうか。

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近世ブランデンブルクの長期的循環過程

   近世ブランデンブルクの土地貴族は、城主=官職貴族として台頭することになる。1319年にアスカニア朝が断絶すると、同家による城塞支配体制が崩壊する。諸城塞は辺境伯から貴族たちの手に渡り、独立した軍事力と広大な領地を持つ城主層が幅を利かせるようになった。城主層は領邦貴族の中でも特別な存在となり、議会が開催される際には辺境伯から直々に招請状を賜った。同時に城主間では紛争が絶えず、そのために貴族の中から「盗賊騎士」が現れるようになった。彼らが領邦内外の土地を略奪して回ったため、14世紀のブランデンブルクは荒廃した。このため、15世紀に成立したホーエンツォレルン朝は城主層を懐柔し、城主層にラント平和を委ねることで秩序回復を企図した。だが土地貴族を宮廷行政へ統合することは進まず、地域支配は自律的武力を保持する城主に依存することとなる。

 16世紀になると、ルター派の宗教改革に伴って教会領を相続した貴族によって、土地貴族の村落所有数が増加する。首都ベルリン周辺では中規模以下の城主たちが拠点を構えるようになり、彼らは宮廷や身分団体の役員として表舞台に立った。この頃、貴族の所領領有は城主=官職貴族が寡占する状態となっている。1517世紀初頭には、領主直営地が増える一方、戦乱による廃村を免れた村落では農民農場がよく維持された。つまり、領主直営地は廃村に拡大場所を得たのであるが、廃村化を免れた村落は秩序回復の恩恵を得たのだ。旧村落地域に新しく土地を得た城主は村の自治的性格を奪い去ることを避け、その機能を確保しつつ自らの支配に適合させていた。その際、領主は賦役を農民への「懇請」という形で慣習化したが、時に農民は反抗し、場合によっては君主権の介入による賦役の制限がなされた。土地貴族が農民に譲歩せざるを得なかった背景として、貧弱な領主経営を支えるために農民農場の資産と生産能力が必要だったという事情がある。

 城主=官職貴族による権力支配は、権力エリートの在地的性格を示した。16世紀には新興官職貴族がブランデンブルク貴族と融合する一方、名門城主貴族が主要官職を独占していた。特に「役得」である御料地行政官(ハウプトアムツマン)の職は権力エリート間で分配され、結果的には多くの貴族たちを君主権に繋ぎ留める作用をもたらした。中央権力である選帝侯権が地方に介入する際にコミッサールが任命されたが、彼らの多くも事情に通じた地方の名望貴族であり、在地的性格は薄まらなかった。16世紀から17世紀にかけてブランデンブルクが王朝的拡大を目指し積極的外交に打って出るようになると身分団体は消極的外交を志向したため、城主=官職貴族が調整役を買い、彼らが調整役となることで秩序が維持された。このように、16世紀は比較的に安定した時期であったといえる。

 以上のような16世紀的体制は、17世紀への転換期より衰退していく。ヨアヒム・フリードリヒ(位1598-1608)の治世下では官職所有者、特に選帝侯の側近でカルヴァン派信徒が多数派となった。彼らはプロイセンの獲得交渉など王朝的拡大政策と親和性があったため重用され、領土拡大に伴って領邦外貴族も宮廷に招致された。次代のヨハン・ジギスムント(位1608-19)の治世下でも選帝侯の側近をカルヴァン派貴族が占め、宮廷行政は消極外交を唱えるブランデンブルク貴族の政治的志向と乖離していった。こうして、選帝侯の積極外交と諸身分の財政的・経済的困窮が同時進行し、ブランデンブルクは統一的意思形成を欠いたまま三十年戦争へ臨むことになってしまう。三十年戦争に際しては、ドーナによる「領邦防衛臨戦体制」構想が提案されたが、対外政策に伴った財政支出を嫌う諸身分の反対で頓挫した。

 三十年戦争後半期には、土地を荒らす傭兵軍に対処するため、親オーストリア派のシュヴァルツェンベルクが新体制を構築して軍政の統御と傭兵軍への資源提供を図った。だが、これも資金・物資提供の不足で傭兵軍将校を統制できなくなり失敗してしまう。傭兵軍将校は、連隊長・大隊長レヴェルでブランデンブルク貴族出身者が多数を占めた。戦乱に伴う土地の荒廃で御料地行政官職の利益が縮小したため、官職貴族は生き残りを期して将校職に集中していたのである。連隊長はお上から与えられる連隊運営費から恣意的にちょろまかして自分の給与を抽出することで、またも「役得」を実現させた。彼らが資金を着服したことによって将校たちへの前貸しは順調に回収されず、そのために彼らは住民からの「現物徴発」でそれを補填することが多々あった。つまり、略奪を働いたのである。結局、シュヴァルツェンベルク派は失脚した。将校たちはこうした「役得」によって資産を蓄積し、戦災復興を目指すフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯(位1640-1688)の時代には、傭兵軍での指導力と騎士身分における声望を兼ねた名門貴族が調整役となる。

 三十年戦争によって、当然のことながら農村社会は荒廃した。ベルリンなど中心都市は戦前比80%程度の人口減少を経験し、他の都市は戦前比30%以下にまで低下した。農民農場は減少し、生産力も低下し、入植者(労働力補填のために国内外から人口不足の農耕地へ移住を推奨された人々)や退役兵の参入などで農村構成が流動化した。領主は直営農場の再建のみならず入植者への支援も行わなければならなくなったために資金面で困窮し、領主の多くは所領を縮小するが、軍務で資産を蓄積した貴族は資金融通役として台頭する。城主=官職貴族層の「鬼子」たる傭兵軍将校が16世紀的体制の「破壊者」となったのだ。

 宮廷社会と権力エリートの構成も変化し、宮廷中心の国家統合が進む。御料地行政官職が市民出身の専門家による経営に移行して「役得」は消失し、御料地収入も中央金庫に集約化されて宮廷官職が重視されるようになる。選帝侯はベルリンやポツダムを中心に「宮廷都市」を建設するために貴族から領地を買い上げ、新興宮廷エリートが宮廷都市を囲むように土地を求め、伝統的貴族層は周縁へ追いやられた。1650年代からはポンメルンやプロイセン出身の貴族が宮廷の重役を務めるようになり、領土拡大に伴って貴族の出自も多様化し、同時にカルヴァン派信仰も浸透した。ブランデンブルク貴族は宮廷で立場を失い、小貴族を中心に軍隊へ転出した。

 やがて、軍政組織と軍事・租税財政も確立されていく。総軍政コミッサリアートとクールマルク軍事金庫が収入を集約し、アクチーゼ(間接国税)など租税制度の基盤となる経済過程も育成された。対スウェーデン戦争に際しては軍事金庫も成立したが、当時は行政官や将校の個人的な資金融通力に頼っていた。こうした資金は外国から融通されることが少なくなかったため、17世紀前半の軍人王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(位1714-1740)の時代には国家的従属を憂い対外戦争への関与が避けられ、計画的財政運営の確立が優先された。

 再建下の農村社会では、領主が農民への人格的拘束を強めた。これは一方的な「抑圧」というより、戦災で資金や土地を欠いてしまった領主が農場の引き受け手を確保したいという「売り手市場」の裏返しであった。農民も決して「従順」ではなく、恒常的に反領主闘争が繰り広げられ、領主裁判権による調整も入った。この際、領主は伝統的慣習に寛容であったが、その背景には中央から派遣されてくるカルヴァン派や敬虔主義派の教会巡察官と地方領主とが対立していたことがある。領邦内の土地貴族のほとんどはルター派正統主義を信奉しており、宗派上の対立がここに影を落としていた。宮廷エリートたちに対する「防波堤」として、ルター派正統主義と農村社会が連携していたのである。

ブランデンブルク=プロイセン国家と農場領主制

 三十年戦争終了前の御料地制度はかなりお粗末なものだった。御料地財政の金庫制度は中央からの支払い指図書によって緩やかにまとめただけであり、資産目録作成や定期的会計報告の軽視、会計コントロールの不在など、凄惨たる情報の欠如が支配するガバガバなものであった。ここでは、中央へ資金を確実に調達することよりも、官職保有者間で「融通が利く」ことが念頭に置かれていたようである。こうした状況を不都合と見たのか、17世紀後半には中央集権化政策との関連で御料地行政改革が行われる。旧ブランデンブルク土地貴族が分散的に支配した御料地行政は宮廷行政官に集権化され、資金管理には地縁を持たない実務官僚が参入する。一方、農民は領主が譲歩する「売り手市場」を利用し、敢えて領主の支配下へ入ることで、自弁を避けて賦役・貢租の固定化や減免を勝ち取るようになっていた。

 18世紀初頭の御料地改革は、中央集権的性格を更に強めた。政府は「規範」としての予算によって計画的に税制を運営し、御料地経営から家産的性格が抹消された。この背景には、領主の実力による農民保護機能が消失し、土地が従来の自治的・軍事的な役割よりも中央政府との関連で投資的・経済的な役割を強めたことがある。土地貴族は、宮廷への財政収入供給と、脆弱な農民経営への投資という二重の社会的役割を担うように変容した。

 農村税制と農場領主制も変容する。17世紀後半にはショッスという土地貴族から中央政府への「自発的」援助に代わり、中央政府から土地貴族へ課すコントリブチオン(地租)が導入され、恒常化した。ただし、地域間で負担の不平等が生じたり、農民の租税負担能力の不安定さや連帯責任制の未熟さが問題になるなど、この税制は全てが円滑に進んだわけではなかった。農民が支払い能力を失った場合は「租税支払い保証」を領主が担うことで、納税義務者の自律性と引き換えに領主が租税を政府に代納した。しかし、領主がそれを更に滞納する場合もあり、そうなると行政的手段のみならず軍事的手段が採られた。ここでは、中央政府が強制的な手段をもって領地に介入する体制が出来上がっていたということが注目される。

18世紀後半への展望

 18世紀後半の好況期においては、好況を背景として農民経営が成長するとともに、土地貴族の経済的機能も無効化する。農民層の「均質化」によって零細農民の階層上昇がもたらされ、他方で下層民の立場も明確化する。経済発展につれて利害対立の多くなった領主-農民関係は、それを繋ぎ留めようとする国家的政策介入に晒される。重商主義政策はそうした動きと並行するものであったが、経済発展と税収入との連関によって、その金融資産志向は土地貴族が領地から分離する要因となる。土地貴族は領地を持たない新権力エリートの形成や、実務的分野にける市民層の台頭によって領主的伝統を薄め、没落するか、軍隊へ活路を見出した。もちろん少数ながら領主的伝統を失わない土地貴族も存在し、例えばマルヴィッツのように開明的ながら伝統的土地貴族の伝統を保持する領主も確かに存在していたが、全般として多くの土地貴族はその権力・財政基盤を土地から分離させていったのである。

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 近世ブランデンブルクにおける農民と領主との関係は抑圧的なものだったのだろうか。従来の研究ではプロイセン史に対する否定的な見方との関連もあって農場領主制の抑圧性は強調されがちだった。しかし、農民も決して従順ではなく、また不況期においては農民が積極的に領主制を利用していた。

 権力エリートであることと領主であることという二重性はどのようにして乖離したのだろうか。近世ヨーロッパ史では「17世紀の危機」ということがよく言われるが、ブランデンブルクについては三十年戦争による土地の喪失と、17世紀後半における宮廷エリートの伸長がその中心を占めている。18世紀には、君主主導の構造変革と重商主義志向がその傾向を強める結果となった。その意味で、18世紀という時代は近世史において独特の重要性を示すことになろう。

 権力構造の変遷において宗派対立はどのような影響を及ぼしたのだろうか。著者は王朝的拡大政策とカルヴァン派勢力の親和性を指摘し、またルター派正統主義を通じた領主と農民との連携についても言及した。つまり、概してカルヴァン派とルター派との対立が君主と諸身分との対立に一致していたのである。ただし、筆者の議論ではカルヴァン派が王朝的拡大政策と親和的だった理由が明示的でなく、この点はより詳細な検討が必要な課題となろう。

 次回の文献紹介は、水島治郎『ポピュリズムとは何か』の予定です。

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