2018年7月5日木曜日

一週一論:ヘルムート・シュニッター「ブランデンブルク軍のレフュジエ」(ドイツ語論文)

 今回紹介するのは、ヘルムート・シュニッター先生の1988年のドイツ語論文「ブランデンブルク軍のレフュジエ(Die Réfugiés in der brandenburgischen Armee)」です。「レフュジエ」はフランス語で元来「難民たち」や「亡命者たち」を指しますが、ここでは17世紀末にフランス王権からの迫害を逃れて国外亡命したカルヴァン派信徒たち、すなわちユグノーのことを意味します。これまでの記事でも扱ってきましたように、ブランデンブルク=プロイセン(のちのプロイセン王国)もそうしたユグノーの受け入れ先となりました。彼らには商工業者や知識人が少なくなかったことから、亡命ユグノーはプロイセンやその首都であるベルリンの経済史や文化史の分野で(少なくともドイツ本国では)多く取り扱われてきました。しかし軍隊における彼らの役割となると、研究はかなり限られています。そこに光を当てたのが、東ドイツ時代にポツダムのDDR軍事史研究所に所属していたシュニッター先生の研究です。

この論文は、以下の著書に収められています。
 

 まず著者は、1685年11月31日にブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィヘルム(大選帝侯)がゲオルク・デルフリンガー元帥へ書いたある手紙を取り上げます。「貴殿も前から知っている通り、朕が改革派信仰を理由にフランスから追放された人々へ実に大きな同情を抱き、そのために朕が新しい連隊を馬と歩兵で編成する仕事に関わっている」。筆者によれば、この手紙はプロイセン軍事史において最も重要な出来事の一つを示すものだそうです。その出来事とは、ユグノー系貴族将校がブランデンブルク=プロイセン軍へ移籍したという事実です。ユグノー系将校は、軍内で独自の集団を形成することになります。当時の状況からすると、選帝侯はこうしたユグノー系軍人を歓迎しました。というのも、ブランデンブルク=プロイセン軍は予備部隊を対オスマン戦争に割き、必要な時にはユグノーの連隊を補欠として起用することができたからです。

 1685年の秋にナント王令が撤回されると、フランス王ルイ14世へ仕えていた多くの将校たちがフランスから去り、彼らはそのことをベルリンの宮廷へ連絡して、自分たちが雇って貰えるよう願い出ました。当時のベルリンは要塞都市でしたが、そこには予算削減のため新入りを受け入れない小さな駐屯軍が存在するのみでした。そのため、ユグノー系軍人には国境地域を防衛する役割が求められ、ベルリンへ来たユグノー系将校の大半は田舎で中隊勤務に就きました。こうしたユグノー系将校の存在は、ブランデンブルク=プロイセンの軍隊組織に長く影響を及ぼすことになったのだと、筆者は強調します。
 
 フリードリヒ・ヴィルヘルムが選帝侯に即位した頃の常備軍は、要塞駐屯兵のみという陣容でした。戦争中の命令権者は中隊長であり、中隊長は自前で経営し、大きな代理権を持ち、選帝侯に対して強い力を持っていました。相当な戦力のある軍隊を創設するというのは、とりわけ財政上の問題と絡んでいて複雑でした。選帝侯はようやく1653年に領邦議会で数年間の資金を得て、何とか小規模な戦力を維持します。しかし土地貴族への大きな譲歩を経て達成された軍隊の拡充も、一連の対外戦争が落ち着くとほぼ元に戻ってしまいます。将校は主にブランデンブルク=プロイセン貴族から募集されましたが、フランスやスウェーデンやポーランドやその他のドイツ系領邦からの貴族も一時的に勤務しました。また将軍まで昇進して叙階された農民や市民の出身の人間もいました。ヨアヒム・ヘニングス・フォン・トレッフェンフェルト(Joachim Hennings von Treffenfeld)や先述のデルフリンガーがそうです。将校・下士官・兵卒の社会的な境界は、1648年以後しばらくは流動的で開放的でした。この傾向は、18世紀前半にプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(軍人王)が閉鎖的な将校団を組織するまで続きました。

 ブランデンブルク=プロイセン軍の発展には、17世紀末からフランス軍が模範として大きな影響を持ち、フランスと同様に軍隊は王権を支えるために利用されました。フランスの将校、要塞建築士、戦争技師、軍事官吏は他国でも少なからず雇用されていることから、これは当時のヨーロッパに共通するものだったと言えます。こうした文脈で、ナント王令が撤回される前にも多くの将校や将軍がフランスを離れてブランデンブルク軍へ入っていました。例を挙げればピエール・ド・ラ・キャーヴ(Pierre de la Cave, 1605-79) やサン・ルー男爵(Baron de Saint-Loup, 1620-92)などがおり、最も多い時期(1685-88年頃)には約600人の将校と下士官、そして1,000人以上の兵卒がブランデンブルク軍へ入りました。これは選帝侯が軍隊の拡充を必要としたからであろうと、筆者は述べています。ユグノーには熟達した軍人が少なくなく、青年将校の中にはフランスの軍幹部養成学校の生徒だった人々が含まれていました。非常に限られた一般的知識しか持たないブランデンブルクとポンメルンの多くの貴族子弟とは異なり、ユグノー集団に属していた軍人は高度な教育を受けていて、フランス語のネイティヴであったことから、特に当時最先端とされたフランス語の軍事文献に通じていたようです。

 しかし総体で見ると、ユグノー集団における軍人の数は比較的に限られていたそうです。ユグノー系軍人に課せられた目的は、以前からフランス出身の将校や将軍が活動していた西方地域に駐屯軍を形成することでした。ただし彼らは居留区の権利に浴することはなく(ユグノー居留区に属する人々は居留区裁判権など様々な特権を授かっていた)、ブランデンブルク=プロイセン軍の裁判権に属することとなりました。因みに、年齢的に将軍や将校を務められない者は選帝侯から年金を下賜されています。800人以上で構成された16個中隊を伴うヴァレンヌ歩兵連隊はゾースト、ヴェルデン、ビーレフェルト、そしてヘルフォルトに駐屯し、10個中隊を伴うブリクモール甲騎兵隊はリップシュタット、ミンデン、クレーフェ、そしてラーフェンスベルクに駐屯しました。同様にブリクモールに指揮された5個中隊を伴う歩兵大隊と、4個中隊を伴うクールノー大隊はブランデンブルクの旧・新市街に駐屯しました。また特筆すべきこととして、フランスの国王護衛銃隊を模範に、ユグノー貴族出身者から構成されたグラン・ムスケテール(Grand Mousquetaires)という銃兵隊が創設されたことがあり、この隊はプレンツラウとフュルステンヴァルデに駐屯しました。その構成員は低くても少尉以上の階級であり、彼らは高給を約束されていました。

 ユグノー系軍人に求められた人材としては、他にも要塞建設の知識を持つ将校や戦争技師があります。例えばルイ・カイヤール(Louis Cayart, -1702)はフランスの有名な建築士ヴォーダンの生徒で、ベルリンのランゲ・ブリュッケやフリードリヒシュタットのフランス人教会(プロイセン・ユグノー初の独自教会)を建設しました。ジャン・ド・ボー(Jean de Bodt, 1670-1745)は1699年にヴェーゼルで要塞建設を監督し、ヨハン・アルノルト・ネーリングが着手したベルリン武器庫の建設を引き継ぎました。

 筆者は、既存連隊とユグノー連隊の内実の違いにも注目します。フランス人歩兵で構成された連隊は12~16個中隊で編成され、各中隊は50~60の兵士を擁していました。これに対してブランデンブルクの中隊は100人を超えましたが、原則的に8~10個中隊が各連隊に属しました。フランス人の歩兵隊には比較的多くの将校が属し、兵士に対する監督能力も高かったそうです。カルヴァン主義を奉じるユグノーは市民的・宗教的な職業倫理から規律意識が高く、当時慣例となっていた鞭や棒による処罰を受けることは少なかったと言われています。こうした兵士たちをジャック・ル・オモニエ・ド・ヴァレンヌ(Jacque l'Aumonier de Varenne, 1641-1717)、ジョエル・ド・クールノー(Joèl de Cournaud, 1637-1718)、アンドレア・ルヴェイヨ・ド・ヴェーヌ(Andreas Reveillos de Veyne, 1658-1726)といったユグノー系の将帥が率いて、華々しい戦果を上げました。やがてユグノーの軍隊とブランデンブルクの軍隊は18世紀に比較的速く統合されましたが、ユグノーの思想だけは足跡を残したと筆者は言います。ユグノーの子孫の名前は1914年までプロイセン軍の将校名簿に残っており、19世紀でもユグノー系将校が軍事学研究で大きな役割を果たしたそうです。

 ユグノー系軍人の存在は、軍事教育制度にも重要な影響を及ぼしたと筆者は言います。というのも、ユグノー系将校が第一線で幼年学校の設立に関わったからです。青年貴族が独自の学校で軍務に備えるという発想は当時でも新奇なものではなかったそうですが、ブランデンブルクでは、ベルリン、ブランデンブルク、コルベルクその他の場所に騎士アカデミー(貴族子弟のための学校)が建てられました。これらは短命に終わったものの、遺産相続権の無い貴族子弟である「士官候補生(cadets)」が先進的なフランス軍の制度を持ち込みました。ベルリンに駐屯する近衛隊には主として地方出身の青年貴族が所属していました。そのベルリンでは18世紀初頭に主要な幼年学校が創立され、士官養成が制度化されていきます。

 筆者は「封建絶対主義の統治とのちの資本主義的なプロイセン・ドイツ軍国主義の下で、これらの軍事機関はむろん目覚ましい発展を成し」、「それらは将校階級の災いに満ちた精神の苗床、すなわち戦争と軍事的な暴力と国粋主義的な僭越の称揚となった」と但し書きをした上で、「しかしながら本来、青年将校を養成するという発想は17世紀初頭の軍事的な改革思想の成果だった。これらの機関は、市民、農民、そして貴族から成る戦力を切迫した三十年戦争に備えるべく領邦の防衛に当たらせることを目的としており、そこでは貴族や市民の子弟が将校となるべく教育を受けた。(中略)ユグノーの思想は現地人から構成される民兵隊にも及んだ。フランスでは1660年頃にそのような計画をルヴォワ(絶対王政期フランスの軍制改革者)が用意していた。(中略)ここにおいても、16世紀のユグノー戦争まで遡るユグノーの伝統があった。当時、傭兵隊と民兵団に似た在郷部隊からユグノーの戦力は構成されていた。ブランデンブルクでも選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムが民兵隊を作ろうとしていた。1701年には民兵団に関する回状命令が国王から出されている。しかしながら、こうした実践の成果は限られていた。だが、在郷民兵団の設立に際してユグノーの影響が確実に及んでいたことは明白である」と軍事思想におけるユグノーの役割を強調しています。

 最後に筆者は、ユグノーはブランデンブルク=プロイセンの社会構造を変革するまでには至らなかったものの、軍事に関わる精神や思想の面で彼らが大きな影響を残したと結論付けています。筆者の見解はユグノーの役割を限定的ながらも肯定的に評価するものですが、この論文は近世ブランデンブルク=プロイセンの軍隊におけるユグノーの役割に光を当て、そうした事実を整理したという点で貴重な研究だったでしょう。こうした研究を基礎として、軍隊を舞台としたプロイセン・ユグノーの研究がドイツで議論の俎上に載せられたようです。

2018年6月23日土曜日

一週一論:ハインツ=ディーター・ハイマン「要求・神話・否認の間のブランデンブルク的寛容」(ドイツ語論文)

 今回紹介する論文は『宗教・精神史雑誌(Zeitschrift für Religions- und Geistesgeschichte)』という学術誌に収録されているハインツ=ディーター・ハイマン「要求・神話・否認の間のブランデンブルク的寛容(Brandenburger Toleranz zwischen Anspruch, Mythos und Dementi)」です。

『宗教・精神史雑誌』についてはこちら。

 この論文はフランスからの難民、すなわちフランス王権から迫害を受けていたカルヴァン派信徒の亡命を受け入れることを決めたブランデンブルク=プロイセンのポツダム勅令について、それが後世に神話化したことを扱ったものです。このポツダム勅令については、つい最近になって日本語版のウィキペディア記事が作成されました。

ポツダム勅令についてのウィキペディア記事はこちら。

 1685年に発布された「ポツダム勅令」は公布以来、ブランデンブルクとプロイセンにおける寛容の歴史と特に結び付き、「文化間対話(Dialog zwischen Kulturen)」の実際的な文脈と関連付けられてきました。件の勅令はブランデンブルク=プロイセン領邦史にとって包括的な意義を有しているされています。というのも、その勅令の要求する他者の受容や寛容といったものが、18~19世紀における憲法の発達にも作用したからです。しかし筆者は、どのような寛容がこの勅令で本来的に定義され、誰によりそれが請求されたのかということを問題としています。またブランデンブルクにおける宗教的寛容の歴史がこの勅令から始まったのだとしても、この勅令の意識的な利用はどのように推奨されたのか、そして今日の寛容概念はそれぞれどの点において区別されるのかということにも目を向けなければならないと言います。

 そもそも筆者によれば、ブランデンブルクにおける宗教的寛容の歴史は「ポツダム勅令」によって始まったわけではないそうです。ここで筆者は宗教改革期以来の宗派間の駆け引きや17世紀前半に始まったブランデンブルク=プロイセンの宗派政策を挙げて、「ポツダム勅令」の相対化作業を行っています。また「ポツダム勅令」という題の命令は実際には存在しないと言います。というのも件の勅令は「選帝侯殿下(中略)が領内へ定住することになるフランス人福音主義改革派信徒に慈悲深くもお許しになることをお決めになった、権利、特権、その他恩恵に関するブランデンブルク選帝侯令」という名称であり、「ポツダム勅令」というのはこの勅令が発された場所に由来する俗称だというわけです。

 筆者は「ポツダム勅令」が発布される過程にも注目します。ブランデンブルクの「大選帝侯」フリードリヒ・ヴィルヘルムは、1685年10月18日のフォンテーヌブロー勅令でナント勅令が撤回され、フランスからユグノーが大量に国外逃亡してくるという事態に対し、難民受け入れの意思を表明します。それが「ポツダム勅令」なのですが、こうした対応はイングランドやネーデルラントや他のドイツ系領邦と全く同じというわけではありませんが似たようなものでした。例えばヘッセン=カッセル伯カールは「ポツダム勅令」よりも半年以上早く4月18日に勅令を出しており、同じ年にブランデンブルク=バイロイト辺境伯クリスティアン・エルンストやツェレ=リューネブルク公ゲオルク・ヴィルヘルムも類似の勅令を出しました。筆者はこの文脈を考慮するならば「ポツダム勅令」は何ら特異なものではないとし、プロテスタント系選帝侯家の打算的な受け入れ政策と評価され得るとしています。17世紀前半の三十年戦争で多くの人口を失い、重商主義のため多くの担税能力者を必要としたドイツ系諸領邦では「人口増進(Peuplierung)」が企てられ、世紀半ばからはユグノーに加えてユダヤ人やメノー派信徒が領内に、ブランデンブルクでは特にベルリン周辺へ定住しました。筆者は「ポツダム勅令」ではこの政策が行われたのであると言い、人口増加政策は寛容政策と必ずしも混同されるべきではないと主張します。

 では曲がりなりにも表向きには保証された「寛容」はエリート層よりも低い水準の世界ではどのように是認され、一般の領民はどの程度寛容だったのかということが問いかけられます。「ポツダム勅令」は信仰や礼拝の自由をユグノーに認め、約2万の難民が次々とケーニヒスベルク、フランクフルト、ベルリン、ブランデンブルク、ミンデン、ゾースト、クレーフェなどの地域に定住したと計上されています。その移住先は空き家や荒れた敷地であることが多かったそうです。移住に際しては「ポツダム勅令」の枠組みに基づく国家からの財政援助があり、都市や村落には新しい居留区が形成されます。しかし当時のベルリン人の証言によれば、ユグノーは長い間故郷へ帰るという望みを持っていたようで、1696年10月にはベルリンではユグノーの帰郷を準備する委員会が設立されています。一方では強制的な送還計画や、南フランスにおける特別国家の計画が大真面目に検討されていました。難民と他集団との間にも最初から摩擦が無かったわけではなく、文化間の寛容は遠い道だったと筆者は言います。当時の史料によるとユグノーの話すフランス語や、見慣れない外国風の衣服、そしてその振る舞いが現地人の反感を呼んだとされ、現地人に呼びかけられた難民への義捐金も集まらなかったそうです。1686年には選帝侯がこの状況を見て、市民からの強制献金を命じています。

 とはいえこの状況はやがて改善し、ユグノーの統合は疑いなく長い期間をかけて経済的にも社会的にも成功したと筆者は言います。私の意見としては、この論文の筆者を含めて従来の亡命ユグノー史研究者はその改善の過程が上手く描出できていないのではないかと考えています。まあ史料的にも難しいからということもあるのでしょうが。

 商工業者を多く含むユグノーの難民集団は、ブランデンブルク=プロイセン地方に新しい職業や商業の部門を持ち込みました。しかし現地の手工業者はユグノーの参入に反発し、自らの特権を守ろうとしました。職場レヴェルではユグノーが女性や子供を働かせることに反感が抱かれ、現地の社会的・経済的慣習と特有の文化が組み合わせが噛み合わないということがよくありました。ですが経済的な競争相手を排除しようという動きは18世紀頃、別の形をとり始めます。この頃、フランス人とドイツ人の商人は、ユダヤ人商社に先んじるために協力していくことになったのです。

 さてブランデンブルクにおけるユダヤ人の状況は、国家的に保証された宗教的寛容の文脈と少しばかり比較できる関係にあると筆者は言います。宗教改革期におけるブランデンブルク辺境伯領からのユダヤ人の強制追放の後、1670年代から再びユダヤ人の受け入れが行われました。1671年のユダヤ人移住と1685年の「ポツダム勅令」で与えられた特権は、比較すればその違いが明らかとなります。ユグノーはユダヤ人とは異なり無制限の定住権を持ち、そのうえ物的な支援も受け、期限付きながらほぼ恒久的な免税や法的な自律性も享受しました。一方、ユダヤ人の移民に対しては経済功利的な理由からの限定的な許可しか与えられませんでした。代理人が彼らに入国許可証の代金を払ってくれることも無く、彼らが費用負担無しで宿を得るということもありませんでした。ユダヤ人がシナゴーグで礼拝を行うことも禁止されました。18世紀初頭にユグノーのためにフランス人独自の教会が建てられていることを考えると、その待遇は対照的です。

 当時の国家理念は宗教よりも商業に拘り、その結果として様々な社会集団が法的な寛容空間で併存したのだと筆者は言います。筆者によれば、「ポツダム勅令」の寛容構想がそのまま近代憲法の原則になったわけではなく、件の勅令は飽くまで当時の文書に過ぎないそうです。しかしだからこそ、歴史上の「寛容」は時代や社会に変化してゆく価値を獲得し、その都度に国家や政治や教会に対する理解も示されてきたのだと言います。

 現代的な移民・難民問題の文脈で語られがちなポツダム勅令の評価ですが、この論文でなされたのは、当時の文脈を考慮してみると必ずしも現代的な「寛容」の文脈で語ることはできないという議論ですね。ただし筆者はポツダム勅令の寛容史的な意義を強く否定することは無く、後世の人々が寛容令の意味を積極的に読み替えていったことを示すに止まっています。そういえば日本でも深沢克己先生がナント王令を巡る動向を事例に「近世フランス史における宗教的寛容と不寛容」という論文で似たような議論を展開しています。この論文は、東京大学出版会の『信仰と他者』という論文集に収録されています。ただし、ハイマン先生が当時の具体的な状況を詳細に取り上げながら論証しているのに対し、深沢先生はナント王令の記念を巡る学界の論争を主に扱っています。

 「寛容」をいつどこでも通じる普遍的な概念として適用するのか、そうではない限定的な概念として適用するのかといった問題には、政治的・学術的・宗教的立場から様々な意見が投げかけられていくことでしょう。私は「寛容」という概念を如何なる場合にも適用してしまうことには懐疑的ですし、少なくとも現在の歴史学研究者で「寛容」概念の無制限な適用を主張する人はまず居ないでしょう。そう考えると、問題はそうした概念や出来事の読み替えを見苦しい「欺瞞」と見るのか、積極的な「再定義」と見るのか、こういった解釈の違いです。読み替えを「欺瞞」と切り捨ててしまえばそれで終わりですが、そこに積極的な意義を見出すならば更なる探究の道は拓かれましょう。一方、そうした現在からの過去の「再定義」は過去を参照することで自らの主張を支えることができなくなった論者の姑息な「戦略転換」であると批判することも可能でしょう。こうした板挟みは、時代遡及的解釈に対する批判と共に、私を含めた歴史学徒を常に悩ませています。

2018年6月2日土曜日

一週一論:ヴィヴィアネ・ローゼン=プレスト「ポール・エルマン:独自の道を辿ったフランス人居留区の後裔」(ドイツ語論文)

 今週からは欧語論文の紹介を行いたいと思います。今回扱うのは、ヴィヴィアネ・ローゼン=プレスト「ポール・エルマン:独自の道を辿ったフランス人居留区の後裔」です。これは日本語訳の無いドイツ語論文で、2005年に出版された以下の論文集に収められています。


 この論文は、近世から近代への移行期にベルリンで活動したポール・エルマン(1764-1851)というユグノー系プロイセン人を取り上げることで、フランス人とドイツ人との間で揺れた亡命ユグノーの子孫のアイデンティティを考察するという試みです。筆者によれば、亡命ユグノー研究の取り組みは難民第三世代まで対象を広げながらも、第四世代はあまり取り扱われてこなかったのだといいます。この世代に属するのが、ベルリンの物理学者ポール・エルマンです。彼は子供時代を栄光あるフリードリヒ大王の時代に過ごし、解放戦争と1848年革命という波乱の時期を経験して死去しました。

 ユグノーの同化に関する有名な論文として、ポツダム勅令300周年の1985年に書かれた、エティエンヌ・フランソワ先生の「プロイセン愛国者からもっと良きドイツ人へ」という論文があるのですが、こうした議論が説得力を持つとはいえ、これより複雑な人生を歩んだユグノーもいました。19世紀前半の亡命ユグノー社会の展開が一定の形をとってのみ進んだわけではないということを示してくれる人物が、ポール・エルマンです。

 文献状況についても論文の冒頭で述べられていて、散逸したもの以外にはポールの孫で司書のヴィルヘルム・エルマンが書いた伝記と、その兄弟のエジプト学者アドルフ・エルマンによる家族回想録(1927年版と1929年版)があるそうです。因みに、このアドルフ・エルマンは先祖にユダヤ人がいたために、ナチ政権下で大学教員の職を追われています。何故ユダヤ人が祖先にいたのかということは、今回の論文にも関わってきます。またベルリン州立図書館のダルムシュテット資料室には膨大な書簡が収められているうえ、ポールの書いた日記と学術論文が現存しているそうです。

 ポールは宗教的寛容と「理性」を旨とするベルリン啓蒙主義の代表者だったそうで、彼の思想もその強いユグノー・アイデンティティも、父ジャン・ピエールの教育から影響されたそうです。ポールの兄ジョルジュ(1762-1805)はポツダム・フランス人教会の説教師になっています。父はフランス人居留区に属しながら視野狭窄な人間にはならず、シャミッソー家など、自らの祖先を迫害したカトリックの子孫であるフランス革命からの亡命者たちを暖かく迎えています。

 そのような環境に育ったポールは数年間の教職活動を経て、1791年に名誉ある哲学正教授の席を得ました。前任はあの『百科全書』の執筆にも関わったサミュエル・フォルメです。ポールは哲学講座に自然科学を導入し、選択講座として実験物理学を導入して、当時まだ新しかったカント哲学をもその講座に導入します。このようにポールは自然科学や哲学に通じていたために、ユグノー居留区の枠を越えて広い人的関係を築き、ドイツ人のキリスト教徒や、ユダヤ系ブルジョワジーとも広い交流関係を築くことになります。

 彼が居留区から自立的な道を歩んだのはその結婚計画に明らかであると筆者は言います。ポールは38歳で嫁探しをしましたが、その対象はフランス人居留区の中だけではなく、ドイツ人の知り合いの中にもありました。遂に彼はユダヤ人にも花嫁を求め、有名なユダヤ人銀行家ダニエル・イッツィヒの孫であるカロリーネと結婚し、彼女は結婚式直前に兄のジョルジュによるキリスト教の洗礼をポツダムで受けることになりました。

 筆者はこれについて、どうしてエルマンはイッツィヒ家から花嫁を得ようとしたのだろうかと問いを立てています。筆者によれば、ポールがカロリーネの可憐さと聡明さに惹かれたという想定は疑わしいようです。この夫婦の関係は良好で安定していたそうですが、カロリーネとりわけ才知に富んでいたわけでも、美しかったわけでもなかったようです。筆者は、ポールの生きた、洗練され開放的な環境がそうさせたのではないかと想定しています。

 さて、先述した1985年のフランソワ論文によれば、19世紀のユグノーはフランス人としての出自を誇る一方で、「真の」フランス人が移民なのかナポレオンの兵士なのかで厳しく区別し、かつ「最も良きドイツ人」になろうとして氏名をドイツ語化し、フランス語使用を拒んだとされています。しかし、ポールはそれとはやや異なる道を辿ったのではないかと筆者は言います。ポールは電気に関する論文で表彰され、1806年12月には市民権を得ています。これはプロイセンが屈辱的な敗北を喫したイェーナの戦いから約2ヶ月後のことでした。この頃を含めて暫くの間、一文字の差ではありますが彼は自分の苗字をフランス語名の「エルマン(Erman)」からドイツ語名の「エルマン(Ermann)」に改めようと考えていたそうですが、実際、1804年から1812年に書かれた彼の日記は、徐々にドイツ語による記述へと移行していったそうです。

 ポールは一人息子のジョルジュ・アドルフ(1806-77, のちゲオルク・アドルフと改名)に大きな期待を寄せ、彼をドイツ人として教育することにしたそうです。1811年の春、ジョルジュ・アドルフはスポーツ愛国者で「体操の父」として有名なヤーンの訓練に参加し、1812年にはドイツ人の学校へ入学しました。ですがその後、父は彼をプロイセンのフランス人学校であるコレージュ・フランセへ送り、フランス語による教育を受けさせました。一方で1813年、49歳のポールはフィヒテ、シュライヤーマッハー、そして他の大学教授と共に兵役を経験し、ベルリン市門に堡塁を増設する作業へ参加しました。そのうえ彼は戦争未亡人や戦争孤児を援助するために声明も出し、エルマン家は戦争支援のため銀製器を提供します。

 1828年にジョルジュ・アドルフ改めゲオルク・アドルフが地磁気研究のためロシアとシベリアへ向かうノルウェー船で旅立つと、ポールは当初フランス語で息子に手紙を書きました。ドイツ語よりもフランス語の方が人口に膾炙していたので、検閲の通過が速いと考えられたからです。しかしポールは手紙の言語をドイツ語に変えてしまいます。その理由は、フランス語は「皮相と諷刺を表現するには実に相応しい手段(ein gar geeignetes Vehikel der Oberflächlichkeit und der Persiflage)」だからだというものでした。これをもって筆者は、ポールが当時流行していたフランス人に対する偏見を内面化していたのだと主張します。しかし一方で、ポールは1830年でも亡命ユグノー家系の名士であるフレデリク・アンシヨンからの手紙にはフランス語で返しており、必ずしもドイツ化一辺倒ではなかったようです。

  筆者は、ポール・エルマンは複雑な人間だったと強調し、ポール・エルマンの伝記に関する既存の見取り図については、更に活発な研究が望まれると言います。ポール・エルマンに関する研究は、ユグノー系自然科学者が同僚や俗人との接触を通じてどのように文化的な媒介者としての役割を果たしたのか、またユグノーであるエルマンがユダヤ系のイッツィヒ家に暖かく迎えられたのは他のマイノリティの代表者だったからなのか、あるいは名望ある学者だったからなのかということを解明するのも、これからの課題だとしています。

 この論文では答えというよりも、ポール・エルマンという人物を題材に多くの問いが立てられているようです。ポールが使用言語をフランス語からドイツ語へと移行させていった事実を見れば、「言語転換から見たエゴ・ドキュメント」という研究もできそうですね。しかしこれまでの研究蓄積に鑑みても、多くのプロイセン・ユグノーが現地社会と同化していく傾向にあったということは否定できませんし、「ユグノーのドイツ化」という「大きな物語」を個別事例による反証で相対化する筆者の作業には、限界があるかもしれません。










2018年2月24日土曜日

文献紹介:中山治一『史学概論』

 今回紹介するのは中山治一『史学概論』です。この本は30年以上前に出版されたものですが、「歴史とは何であるか」ということを歴史叙述や史学に関する個別的事実に即して考えるために有益な本となりましょう。要するに、史学史的事実に即して史学の本質を考えるという本なのです。

 この本は序章と終章を除いて全4章から構成されていて、まず序章で「史」の定義、第1~3章で前近代の歴史叙述が順に整理されています。前近代の歴史叙述は中国、日本、西洋の順に例示・詳述され、4章でランケ流近代歴史学の確立、第5章で19世紀歴史学の変容について書かれています。では、その内容を紹介していきましょう。

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「史」の意味とその認識
  「歴史」という語は意外と新しいものです。歴史叙述で「歴史」という語が明示的に使用されたのは、明代末万暦年間(1573-1619)に袁黄という人が書いた『歴史網鑑補』が最初だといわれています。これは江戸時代、将軍家綱の時代に和訳され、17世紀後半から「歴史」という語が日本でも使用されるようになります。明治時代には新設された文部省が「歴史」を科目化したため、近代化の過程で「歴史」という語は中国へと逆輸入されるという面白い経緯を辿っています。

 「歴史」という語については、「歴」よりも「史」という字の持つ意味が大事です。本来、「歴」とは物事の経過のことを指しますが、「歴史」という語に組み込まれて初めて「経過した事実の記録」という意味が生まれます。「史」は殷墟の甲骨文字にも見られ、「記録を司る役人」という意味を持っていました。この役人は記録者だけではなく教育者の役割も担いました。日本ではこうした「史」のことを「フヒト」と呼びました。「史」は記録や文書のことも指すようにもなっていました。

 西洋の場合は、ギリシア語とラテン語の「ヒストリア」が語源です。英語の「ヒストリー」もここから来ています。「ヒストリア」は元来「探求して得られた知識」のことを意味します。語源の異なる中世高地ドイツ語の「ゲシート」、すなわち標準ドイツ語の「ゲシヒテ」も「歴史」という意味で和訳されますが、これはもともと「出来事」を指しました。ですが起源は異なるにせよ、いずれの語も「出来事」「出来事についての知識」「知識を書き記した書物」といったことを示すようになりました。

 ここで重要になってくるのは語源の違いではなく、「史」という言葉が含意する「出来事」と認識です。すなわち、「史」が客観的に起こった「出来事」そのものと、「出来事」を主観的に捉えた知識の双方を含んでいるということです。これは、自然科学が科学と自然を別物と捉え、認識と対象を分離させていることと対照的です。歴史を認識しようとする主体は、認識の対象である歴史的世界の一部に含まれているのです。したがって、歴史の認識は歴史的世界そのものの自己反省に他なりません。そうならば、歴史家の主観が時代そのものの主観と合一していなければなりません。よって、歴史家は自我を消し去り、歴史そのものが歴史家を媒介として語るのが理想とされるようになるのです。

前近代の史書を巡って―中国・日本・西洋―

 中国の史書は、儒教的な歴史観の影響を強く受けてきました。そこでは「史」が道徳的教訓を引き出すためのものとされ、著者の価値判断に関わらず過去そのものの記録が批判材料になりました。つまり、記録することが批判になったのです。その証左として、事件の場に居合わせた記録者が何人も殺されています。春秋時代の歴史を描いた儒学書『春秋』は、「春秋の筆法」という、儒教の動機第一主義に基づいた歴史叙述の様式を生み出しました。こうして、中国の歴史叙述では史実(史)が倫理的批判(経)へ従属するようになります。しかし漢代に司馬遷が『史記』を著すと、彼は史書を経書から独立させます。この後、漢王朝が崩壊するとその混乱に伴って史書も多様化します。いずれにせよ、この『史記』成立後の過程で、歴史を倫理に従属させない人間の精神活動の一分野として歴史叙述が成立します。

 とはいえ、濃淡の差はあっても儒教倫理という枠組みは消えませんでした。宋代には司馬光が政治参考書として『資治通鑑』を著しますが、これは紀伝体の断代史(王朝ごとの歴史)ではなく簡潔な編年体の通史を編纂したものでした。『資治通鑑』は、司馬遷以後の歴史叙述の形骸化に対して、『春秋』の儒教倫理を再び持ち出して知的ルネサンスを起こしました。ただしこのルネサンスは、近代科学由来の新たな人間観から生まれ出た歴史意識を持つヨーロッパのそれとは全く異なるものでした。中国の歴史叙述は「学」としての歴史ではなく、「鑑」としての歴史という意識に基づいていたのです。

 日本の史書は、こうした中国の影響を大きく受けました。その影響は、『日本書紀』から『日本三大実録』までの通称「六国史」(720-901)に見られます。ただし日本の歴史叙述には独自の視点も入りました。『源氏物語』の作者として有名な紫式部は、「六国史」は人間性の機微を描けていないとして批判しました。こうした批判から、個人の心理に焦点を当てた物語風の歴史叙述が生まれます。古典文学としても有名な『栄花物語』『大鏡』『今鏡』『水鏡』などは、そうした文脈で成立しました。鎌倉時代へ入って仏教思想が洗練されると、仏教的な高次の視点が歴史叙述に取り入れられます。慈円の『愚管抄』(1220-24)は、仏教的な「道理」で「移り行く世」を描きました。こうして、日本の歴史叙述は中華由来の断代史から超越的原理による時代区分へと志向を変えていきます。こうした宗教的な歴史叙述は、のちに述べる西洋中世の歴史叙述と類似したものになりました。

   鎌倉時代からは先述の『資治通鑑』が伝来します。『神皇正統記』はこの影響を受け、「道理」ではなく倫理的な意味での人間の普遍性に立脚する叙述をなしました。これ以後の歴史叙述では汎神論的な意識が消えますが、治者道徳的な倫理観は残ることになります。

    他方、古代ギリシアの歴史叙述に端を発する西洋のヒストリアは当事者意識と強く結び付いていました。ペロポネス戦争を描いたトゥキディデスや、ポリス興亡史を描いたクセノフォンは、同時代の出来事を当事者の証言から正確な記録に残しました。したがって、これらは教訓的なものでは有り得なかったのです。

    ローマ時代には、ポリュビオスが第二次ポエニ戦争は同時代者の証言、それ以前は過去の記録から歴史叙述を行いました。またリウィウスはローマ初期の伝承的記録を収集し、一つの連続的な史話に仕上げました。こうした歴史叙述方法は、「鉄と糊」による述史法と呼ばれます。

    以上のような歴史叙述は、中世にはキリスト教による意識の変革を経験します。自民族中心主義に裏打ちされたギリシア・ローマの歴史叙述は変容し、キリスト教的な全ての人間を包摂した普遍史へと転換します。世界歴史の成立です。キリスト教的な歴史叙述は、神の意図を実現する過程として、人類の始原から遠近法的に歴史を描きました。「紀元前」「紀元後」といったキリストの誕生による時代区分は、「時代」や「時期」の区分という発想に繋がります。ただし、こうした歴史叙述は、同時代の記述には批判が伴うものの、天地創造に始まる世界史の図式には批判が無いことがしばしばでした。これに対してルネサンス期には、マキアヴェッリが『フィレンツェ史』で古典的な同時代史へ回帰する姿勢を見せました。

近代学問の成立と史学の分裂

    歴史学において、「真理」のありかは何処なのかという問題は重要です。中世では「真理」は聖書にあるとされていました。しかし近世に成立した自然科学は自然そのものに「真理」を見出し、学問を聖書や教会から解放したとされます。これにより17世紀には学問の「方法」が確立し、同世紀末には古文書学が成立しました。

    16世紀の宗教改革は、文書考証を大きく発達させました。改革を進めるプロテスタント陣営は文書を武器に教会の歴史的基礎を批判し、カトリック陣営も同様のやり方で応戦したため、文書考証が重視されたのです。フランスのマビヨンは『古文書論』(1681)を著して文書の真偽を疑い、その真正さを文書相互の関係から証明しました。この頃から「批判」という言葉は個人的な「趣味の判断」から普遍的な「真実さの検証」へと意味を変えることになりました。ただし18世紀に古文書学は専門化し過ぎてしまい、歴史の認識や叙述といった大きな問題からは遊離してしまいます。

   17~18世紀のヨーロッパでは、過去と現在との連関が強く意識されるようになりました。フランスの啓蒙思想が、こうした歴史観を成立させたのです。過去は動かない化石ではなく、現在と相関的に捉えられるべきものとして考えられました。例えば、ベールは『歴史的・批判的辞典』で過去の独断的な思想に不信と懐疑を示しました。ブーランヴィリエは『フランス旧統治史』でフランス堕落の原因を国王の専制に求める一方、デュボスは『フランス王政樹立の批判的歴史』で国王に対抗する貴族特権の根拠をフランク王国の契約関係まで遡ることで否定しました。また、モンテスキュー『ローマ人盛衰原因論』で長い歴史から一般法則を見出す「史論」を強調したのに対して、ボーフォールは『ローマ最初の5世紀の不確実さに関する論文』で古代の伝承を批判的に検証し、ドイツのニーブールはこうした啓蒙主義歴史家の仕事から史料批判の方法を継承・発展させていくことになります。

 一般的に、近代歴史学はドイツのニーブールとその継承者であるランケにより確立されたとされています。しかし近代歴史学の根幹である「歴史的=批判的方法」は、既に先述のボーフォールにより確立されていました。そうだとするならば、ニーブールの継承者であるランケの独創性は何処にあるのでしょうか。よくある議論として、ニーブールは古代史、ランケは中世・近代史を専門としていたことから、研究対象となる時代が違ったということで両者の役割が区別されます。しかし、これだと十分な説明になっていません。

 ランケ歴史学はルネサンス時代のイタリアやドイツの歴史叙述の矛盾の検証から出発しています。「特殊から一般へ登る」という一般化的考察に対するランケの個体化的把握の方法論は、特に国家の個体化的把握に関してその特徴がよく出ています。つまり、それは各国家の発展を固有の傾向で説明するというもので、ニーブールの『ローマ史』や18世紀の文献学者たちの研究に淵源を持つものではありません。実は、ランケはゲッティンゲン学派を中心とする政治学者や国際法学者の系譜に連なっていました。ランケは国家系というものに着目することでその歴史理論を成し、その時代的背景にはナポレオン戦争やウィーン体制といったヨーロッパの国家系の変遷があったのです。

 こうしてランケは19世紀前半に近代歴史学の発展へ寄与するのですが、19世紀半ばには「歴史の政治化」という現象が起こります。ここにはドイツ的な事情がありました。当初ランケが大学教員として行っていた「最近世史」の講義は、環太平洋革命からウィーン会議までを扱っていました。つまり、彼の講義はほとんどアクチュアルな現代史だったのです。しかし1830年代に入るとドイツ・ナショナリズムと共に民族的な自由の理念が高揚し、ウィーン体制的な勢力均衡を旨とするランケの想定した国家系は時代遅れとなりました。例えば、自由主義者のダールマンは革命の自由主義的解釈を歴史家の使命とし、民族主義者のドロイゼンはその歴史叙述においてプロイセンによるドイツ統一を主張したほか、中世史家のジーベルはフランス革命への関心から近現代史家に転向し、またイタリア政策論争にも手を出しました。このように、「歴史の政治化」は、歴史家の政治問題への関心と実際政治への接近、政治的関心に基づく研究テーマの取捨選択といったようなことを引き起こしました。こうしてランケの構想した国家系は受け入れられなくなり、ドイツの歴史学はナショナリズムの影響下で政治化してしまいました。

 同じ頃、イギリスやフランスでは「歴史の科学化」という現象が起こります。統一国家の建設という問題を既に解決していたイギリスとフランスではドイツのようなことは起こらなかったのですが、社会科学の理論が歴史学に入り込みました。「歴史の科学化」を支えていたのは、模写の精神です。社会進化論者のスペンサーや動物学者のハクスリーは学問上の客観性に偏重することで、そうした精神を広めました。こうしたわけで、人間精神の創造的で主体的な活動よりも、環境による人間の拘束が重視されるようになったのです。文学における自然主義の流行もこの文脈に位置し、のちにはサイエンス・フィクション(SF)というカテゴリーの確立に繋がりました。こうして、自然認識と歴史認識とが混同され、文学の自然主義や科学の実証主義が歴史学に入り込むことになります。「史」の主客合一は、「歴史の科学化」で変容することになりました。

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 以上が『史学概論』の内容です。先述した通りこの本はやや古くはなっているものの、ヨーロッパだけでなく中国と日本の歴史叙述をも史学史的に整理しているという点で、その価値は侮れないものでしょう。また抽象的な議論が目立つものの、認識論的な視点を採り入れつつ、160頁程度で議論がまとめられているので、史学史を学ぶには良書です。

 ただし、この本にはいくつか欠点もあります。まずはイスラームの欠如です。ヨーロッパに囚われず幅広い視点を提供していることは評価できますが、イスラーム世界の歴史叙述に関する記述が全くありません。これはイスラーム学が現在ほどには発展していなかったという執筆当時の時代的な制約によるものでしょうか。また、ニーブールとランケとの違いは詳細に議論されているのですが、ボーフォールとニーブールとの違いは有耶無耶にされたままでした。更に、ニーブールとランケとの違いを詳述した部分は、概説というより持論を展開しているという色彩が強く、読み手を混乱させるような構成でした。これを国際政治史に強い中山先生の専門性が顕現したものと見ることもできるのですが、それまでの記述は概説的だったのに対し、近代歴史学の成立について述べた部分ではもはやランケの理論を自明のものとして話を進めている嫌いがあり、これを「概論」と呼んで良いものなのかと疑問を抱かざるを得ませんでした。

今回は以上。次回は未定です。

2018年1月19日金曜日

文献紹介:水島治郎『ポピュリズムとは何か』

 今回の文献紹介では、水島治郎『ポピュリズムとは何か』を取り上げる。この著書は2016年末に初版が出された新書で、現在話題の「ポピュリズム」という思想潮流を様々な事例を挙げつつ分かりやすく解説した著書である。以下、著書の内容を要約する。

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ポピュリズムとは何か

 ポピュリズムの特徴は、エリート批判とカリスマの存在に見られる。ポピュリズムはエスタブリッシュメント(支配階級)に対する「下」の強い反発運動を基盤とし、グローバル化や外国人受け入れを一方的に進めるエリートに対して、「人民」重視の姿勢を示す傾向にある。その動きを、党内手続きや「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」に縛られない「民衆の声」を代表するリーダーが率いるのである。ただし、こうしたポピュリズム政党やポピュリストのイデオロギーには「薄さ」が看取され、具体的な政策内容では特徴付けられないことが多い。彼らは民衆の直接参加を通じた「よりよき政治」を積極的に目指すが、これが政治エリート支配への批判や民衆の自己統治を訴えることから、ここにはラディカル・デモクラシーとの共通性が見出される。

 こうしたポピュリズムへの対処法としては、主に四つの方法が挙げられる。第一は「孤立化」である。これは、既成政党がポピュリストと非協力の姿勢をとるものである。ただしこの方法は善悪二元論の域を出ず、既成政党を一括して批判するポピュリストの主張の裏返しとなってしまう。第二は「非正当化」あるいは「対決」である。これはポピュリズム政党の正統性を否定し、積極的に攻撃を仕掛けるものである。第三は「適応」あるいは「抱き込み」である。これはポピュリズム政党の正統性を一旦承認し、その挑戦を受けて自己改革に努めるものである。この対処法には有権者の不満を緩和し、ポピュリズム政党の周縁化を促す効果がある。第四は「社会化」である。これはポピュリズム政党に働きかけて変質を促し、リベラル・デモクラシーの枠内で飼い慣らすものである。だがこうした方法があるとはいえ、ポピュリズム政党がデモクラシーを脅かさぬためにはデモクラシー自体への信認が必要である。すなわち「抱き込み」や「社会化」にもリスクがあり、ポピュリズムに対する万能の処方箋は無いのだ。

ポピュリズムの黎明

 「ポピュリズム(Populism)」の語源になったのは、アメリカの人民党(People’s Party)とされる。人民党は19世紀末に創設され、共和党と民主党というアメリカの二大政党が掬い上げない社会運動の受け皿となり、農民と労働者を保護した。人民党の支持基盤は「普通の人々」にあったのだ。人民党は短命に終わるが、ポピュリズムの先例を作ったその歴史的意義は大きい。

 ポピュリズムの次なる舞台はラテンアメリカだった。1930年代以降、大地主や鉱山主などの寡頭支配に国民の不満が募り、エリート批判を行うカリスマ的な指導者の出現がそれに拍車をかける。ここで台頭してきた指導者には、アルゼンチンはペロン、ブラジルはヴァルガス、メキシコはカルデナス、エクアドルはベラスコなど、中間層出身者が見出される。彼らはラジオや遊説を駆使して大衆を熱狂させる一方、商品経済に政府を介入させることで大衆消費を開拓する功績をなした。現在、彼らの多くは権力の座を退いたが、こうしたポピュリズムの温床となった構造的不平等はラテンアメリカにまだ残存している。

 第二次世界大戦後にはヨーロッパでも極右政党が成立し、ポピュリズムが姿を現すことになる。左派と右派の「野合」や既成政党の「同質化」に対し、有権者の不満を受け入れる既成政党の「常識」に挑戦する動きが生れてきたのである。労働組合の衰退や無党派層の増大といった「組織の時代」の終焉はそれを助長し、エリート層が社会への「把握力」を低下させたことで「断絶」がもたらされ、既存の政治家は「私たちの代表」ではなく「彼らの利益の代弁者」と見られるようになる。「近代化の敗北者」も、エリート層が主導したグローバル化に伴う格差の拡大に不満を示すようになる。

ポピュリズムの「リベラル」な論理

 ヨーロッパのポピュリズムには次の特徴が見出される。まずオランダの自由党などは党組織が弱い反面、「タブー」を破る発言でメディアの注目を集めている。またスイスの国民党などは直接民主制を志向し、国民投票と移民排除を組み合わせた方針を採っている。更に福祉の対象を自国民に限定し、福祉政策にとって負担となる移民の排除を訴える「福祉排外主義」も、ヨーロッパのポピュリズムの特徴である。

 ヨーロッパのポピュリズム政党には戦後から長い歴史を持つものがある。この長い歴史の中で、例えばベルギーのフラームス・ベランフ(VB)への賛否を巡る競合を通じては、政治空間が「活性化」される効果がもたらされた。すなわち、ポピュリズム政党の台頭で既成政党は「改革」を促されたのである。例えば既存政党の自由進歩党はフランデレン重視に政策を転換し、また同じく既存政党の社会党が女性や青年の多用によって党内を活性化させた。このように、リベラル・デモクラシーの「防疫線」を越えてポピュリズムの影響が及び、既存の利益誘導政治が克服されていったのである。

 以上のようなヨーロッパにおけるポピュリズムの生成過程はまさに民主主義の逆説であり、リベラルゆえの排外主義という姿勢がそこにはあった。すなわち、近代的・世俗的価値観と相容れない「危険な宗教」としてイスラーム教を批判する動きが働いていたのだ。すなわち、デンマークやオランダといった環境・福祉先進国において排除正当化の「リベラル」な論理が発達してきたのである

 「理想の国」と思われてきたスイスも、その波を免れていない。少数派政党が存在感を示す機会として直接民主制を志向するスイスの国民投票が利用されたことは、ポピュリストの主張を世間に示す機会となった。またイギリスのEU離脱も、国民投票の結果である。エリート出身ながら庶民的な振る舞いや言葉遣いで庶民の心を掴んだファラージュがイギリス独立党を率い、「置き去りにされた」人々の支持を集めた。エリート層が労働者層に「チャブ」という蔑称を押し付けるなどして彼らを「怠惰」と非難したことが、社会的分断を助長していたのである。

グローバル化するポピュリズム

 アメリカで生まれ、ラテンアメリカで再興し、ヨーロッパで拡大したポピュリズムは確実にグローバル化している。世界の各ポピュリストには共通項が見出されるのだ。いずれの政党にも共通するのは支配文化への対抗という立場であり、そこには「多様性」や「寛容」といった既存の価値観への疑問、移民問題を先送りにする学界への反抗などといった背景がある。また欧州議会でもポピュリズムが展開されている。「実務型」のEUに反対するポピュリズム政党の躍進は、欧州議会を通じて欧州統合を阻止する皮肉となった

    このように各国のポピュリズムには共通した傾向が見られる一方、ラテンアメリカとヨーロッパとでは明らかな相違点も見られる。すなわち、前者は国家機能拡大を要求するが、後者は「特権層」を引きずり下ろそうとする。また前者は直接遊説を重視する一方で、後者はネットを重視するという、メディア戦略の違いもある。

 この著書全体を通してポピュリズムについて明らかになったことは、大きく三つある。第一は、リベラル・デモクラシーとポピュリズムとの関係である。すなわち、「リベラル」や「デモクラシー」を突き詰めるとポピュリズムを正当化できてしまうということである。第二は、ポピュリズムの持続性である。一般にカリスマ的リーダーがいなくなれば瓦解すると考えられるが、既成政党が採用しがたい政策理念を身に纏うことでポピュリズム政党は「受け皿」としての位置を保つのである。第三は、ポピュリズムによる「改革競争」と「再活性化」である。ポピュリズムは問題提起によって政治を改善する効果を持つ安全弁ともなる。

    だが、フィリピンのポピュリストであるドゥテルテが行うような「超法規的殺人」の例を見れば、ともすると法治国家の枠内を超えて暴走してしまうポピュリズムが制御可能なのかは怪しい。現在の我々は、ポピュリストという厄介な「ディナー・パーティーの泥酔客」にどう対処すべきかを問われているのである。

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  以上が著書の内容である。水島の議論は、ポピュリズムとデモクラシーとの親和性、そしてポピュリズムがもたらす改革の可能性に肯定的な評価をも与えたという点に価値がある。とりわけ水島がポピュリズムを肯定的に評価したことは、同じ書名でポピュリズム論を著したJ. W. ミュラーの議論と好対照である

 ミュラーの議論はポピュリズムそのものを否定的な立場から検討し、これをデモクラシーの敵であるとして、その危険性を一般に示すことを目的とする内容になっている。彼はポピュリズムの持つ「反多元性」を批判しているが、この姿勢は彼のリベラルな立場から来るものであろう。

    だがポピュリズムの危険性を指摘するミュラーの主張には首肯できる部分もあるとはいえ、一面的な「断罪」に傾く彼の議論には疑問が残る。また彼の著書の内容は難解であり、一般民衆への警告の書と呼ぶには無理がある。そういう意味で、リベラル・デモクラシーの模範とされてきたオランダ政治を批判的に検討することから始まり、それをより広範にポピュリズム論として一般向けにまとめた水島は、ミュラーよりも的確で公平な議論を展開しているといえよう。

 しかしながら興味深いのは、水島が決して中立的ではなく、むしろデモクラシーを維持するという立場からポピュリストへの対処を唱えていることである。彼が序章においてポピュリズムへの対処法を示し、またそれを肯定的な意味で「処方箋」と名状したのもそうした姿勢の表れであろう。彼がポピュリズムの効用までも詳細な検討の対象としたことには、民主主義を脅かそうとする思想潮流について詳しく知ることで、民主主義の崩壊を避けたいという意向が看取される。

次回の文献紹介は中山治一『史学概論』です。