2017年10月23日月曜日

文献紹介:永田諒一『宗教改革の真実』

  第2回の文献紹介で扱うのは、永田諒一(2004)『宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史』(講談社現代新書)だ。この本は10年以上前に出版されたものだが、今年は宗教改革500周年ということで宗教改革に関する概説的な文献を取り上げる。安価な新書なので、この時代のヨーロッパにご関心のある方にはお勧めである。

 まず、この本の大まかな論点について述べておきたい。著者は、一次史料と先行研究の蓄積を基礎に宗教改革時の社会像を描くという姿勢で一貫している。そこでは、私がのちに述べるアナール学派の業績を踏まえ、「変化しないもの」の「社会史」研究という視角に拘った。また著者は宗教改革期における「意図された」改革と「意図されていなかった」改革を区別し、その事例を挙げている。当書によれば、宗教改革期は「近代」の始まりではなく、中世の様々な価値観や教会体制が否定されていく「リストラ期」であった。

 私はそういった当書の内容について、次の三つに注目した。第一に、一般民衆は宗教改革を巡る神学論争をどこまで理解していたのか。第二に、宗教改革派はメディアを介して民衆にどう宣伝活動を行い、どこまで効力を持ったのか。第三に、空間を共有する異宗派間でどのようなコンフリクトが生じ、世俗権力はそれをどう調整したのか。

-----------------------------------------------------

1. 社会史研究の発展

   社会史研究とは、「変化しないもの」の歴史である。社会史研究は、社会上層に位置する少数の政治家や知識人を取り上げて事件史を主とする19世紀のドイツ的なランケ以来の伝統的歴史学と決別し、「普通の人々」の暮らしぶりに注目することから始まった。20世紀前半、フランスのブロックとフェーブルを中心とする学術雑誌『アナール(年報)』から成立したアナール学派は、社会全体を視野に入れる「全体史」と、社会学や経済学など「歴史学の隣接諸科学」を重視し、社会史という学問分野の草分けとなった。アナール学派次世代のブローデルは、「長期的に持続する歴史」、特に「マンタリテ(心性)」の歴史を唱え、社会の中下層に注目した。変化するものを追究する学問が「変化しないもの」を追究するとは、矛盾したことのようにも聞こえるが、そこに社会史研究の面白さがある。こうした成果を踏まえて社会史研究の視点から宗教改革を捉えるというのが、著者の方針である。

 こうした社会史研究と関連して、通説が覆された例がある。ルターが『95箇条論題』を教会の扉に貼り出し、それが宗教改革の嚆矢となったという有名な話があるが、これが疑問視されるようになった。1031日」に「『論題』を(ヴィッテンベルクの)城教会の扉に張り出した」という言い伝えがこの通説の由来なのだが、これはあくまで伝聞に過ぎず、実は同日前後にルターがマインツ大司教へ「『論題』を書状で送り届けた」ことだけが確実なのである。貼付は改革運動が始まってから支持者が勝手に行ったとも言われており、『論題』の原本が存在しないために事実はより分かりにくいままである。この通説はルターの助手であったメランヒトンが執筆したルター伝で主張したものだが、この伝記は書き殴りのような内容で史料的価値は低く、はっきり言って全く信用できない。こうした曖昧さが生じてしまうのは、改革前までのルターが無名の一民衆であるために史料が少なく、16世紀というメディアが限られメディアへのアクセス手段も限られた時代の史料的制約による。このことは、歴史研究の一つの成果であるとともに、社会史研究の限界を示す事例でもある。
 
2. リテラシーとメディア

 ルターの『論題』貼付が疑わしいとすれば、有名なグーテンベルクが印刷術の「発明者」であったという主張にも疑問が持たれる。実はグーテンベルクも生前はルター以上に無名の人物であり、彼の印刷術は当時では全社会的な関心を喚起しなかったとされる。彼の伝記や業績紹介の文献も概ね死後に著され、発行年も印刷業者も記されていないものだった。これも信用できないわけである。俗に「グーテンベルクの発明」と呼ばれるものは個別技術の質的改良や事業化の総体に過ぎず、例えば活字を組み合わせて複製をする技術は14世紀からあったことから、こうした評価が妥当なようである。また、1150年に最初の製紙工場がスペインに、1390年にドイツ初の製紙工場が建設されており、この間に高価で生産速度の低い羊皮紙から安価で大量生産しやすい紙の使用へと移行していったことは、既に「グーテンベルク革命」の素地を作っていた。宗教改革派(プロテスタント)が活版印刷術を思想宣伝に利用することで、紙媒体の普及が爆発的に進んだのである。事実として、出版物の種類は宗教改革が始まる1520年代から16世紀初頭までに約100倍となった。

 だがこれだけ本があっても、字が読めない人が多数を占めれば、紙媒体を通じた思想宣伝のハードルは高くなる。当時、貴族層の半数近くと民衆の大多数は文字と無縁の生活を送っており、16世紀前半でドイツ語圏の識字率はたった5%だった。識字率には当然ながら地域差もあり、都市部では3050%で、先進的な西南ドイツほど高く、こういった地域は読み書きを教授できる学校が多かったのも特徴である。またヨーロッパの識字率の基準では、自分の名前が読み取れて書けるだけでも「読み書きができる人」と判断されるため、より厳しい基準で識字率が9割を大きく超えた近代以降の日本と比較すれば、もはや異次元である。したがって、一般民衆の間では各人の独自解釈で黙読するような「個人読書」は行われにくく、聖職者など教養のある人が文字を読めない人に代わって読み聞かせる「集団読書」がよく行われることになる。この「集団読書」は宗教改革派の思想宣伝の機会となった。というのも、読み聞かせを行う人は「集団読書」の際に自身の解釈や抑揚を加えることができたからである。リテラシーの開きは、知識人による公の場でのアジテーションを可能にしたのだ。

 とはいえ、教養の無い一般民衆への思想宣伝に最も役立つのは視覚メディアであろう。宗教改革派は、キリスト教徒なら誰もが知っている記号を用いることで、図像宣伝に役立てた。宗教改革派は絵入りの冊子を頻繁に配布した。特にカトリックの親玉であるローマ教皇は批判の的となる。そこで用いられた記号として「三重の王冠」が挙げられるが、これは教皇の被る王冠として一般信徒にもよく知られていた。そのため、「三重の王冠」を被って描かれている人物はローマ教皇だと一目で分かるのだ。また、悪辣そうなライオンの姿をした教皇が描かれることもあったが、これは贖宥状販売を促進してルターの顰蹙を買った教皇レオ10世のことを表していた。「レオ」とは、ラテン語で「ライオン」に当たる単語である。また、愚者の象徴であったロバは「反キリスト」を表し、悪弊の元凶とされた教皇や悪徳聖職者をこき下ろす記号として使われた。

 一方、ルターに対してはあからさまな称揚が目立つ。彼は修道士服と剃髪という姿で描かれることがあったが、この姿はまさに修道士の身なりであり、キリスト教世界における尊敬の対象であった。もっとも、ルター自身は修道制に否定的だったのだが。博士の帽子と法服という姿で描かれたルターは、真理が宗教改革派にあることを示し、彼の絵によく描かれた鳩は、三位一体における聖霊を表すことから、ルターの正統性を強調する効果を持った。こうした描き方には、極端なまでの教皇の戯画化とルターの英雄化という傾向が見られる。「ドイツのヘラクレス」という木版画には、ギリシア神話の英雄ヘラクレスよろしく屈強そうなルターが教皇や聖職者を成敗している様子が描かれている。いささかルター贔屓が過ぎている感はある。

 思想宣伝において表出したリテラシーの開きという問題は、当時のヨーロッパが文化的にエリート層の「大伝統(メインカルチャー)」と一般民衆の「小伝統(サブカルチャー)」とに分断されていたということと相関関係にある。エリート層においては学術言語のラテン語が共通語でもちろん識字率も高く、それに対して民衆は知識と権威のある人から口述で知識を得るべきだという伝統があった。確かに、土着化した農村部の下級聖職者はラテン語が読めず学識にも欠けたという例はあるものの、文字を巡る階層分化はかなり明白だった。

 宗教改革派がこうした階層分化を踏まえて巧みにメディア戦略を展開したのに対し、カトリック教会は活字宣伝文書の活用に消極的だった。カトリック教会では「印刷された本は美しくない」「印字には心が籠っていない」というような意見が上層部を占めていたのである。カトリック教会が思想宣伝のために提供した少数の出版物も、エリート階層に向けた難解な内容で、芸術的装丁の施された高価なものであり、とても一般民衆の手に届くものではなかった。それに対して宗教改革派はみすぼらしい粗悪な紙と誤植の多い粗末な印刷が特徴であり、また「集団読書」を前提とした口語調に加え、民衆に親しみやすい俗語やセンセーショナル案な罵言も多分に採り入れられていた。

  カトリックは「大伝統」の担い手だったことから伝統的思考を打ち破れないでいたのに対し、宗教改革派が柔軟な姿勢を示せた背景には、両者の指導層が世代的に異なっていたということがある。原則的に階層制の無い宗教改革派は20~30代が指導層であり、例えば1520年の時点でルターは30代後半、その助手メランヒトンは何と20代前半であった。彼らは「新しいメディアに馴染める世代」であったから、文字印刷の導入に柔軟な姿勢を示せたのだ。他方、教皇を頂点とする階層制が自明の理であったカトリック教会は上位聖職者が年配者で占められており、指導層は「新しいメディアに馴染めない世代」として活字宣伝を積極的に行わなかった。もちろんカトリック側にも活字宣伝の有用性を唱える意見はあったが、そうした主張をしたのは30~40代の比較的若く位も低い聖職者たちであった。

3.民衆の素朴さと聖像破壊

 民衆は神学理論を理解してカトリックを信奉したり宗教改革派に転じたりしたのかというと、答えは否であると言わざるを得ない。それを示す一つの例が、悪名高い贖宥状(免罪符)の販売である。キリスト教では、現世で罪を犯した人は天国へ行く前に煉獄という場所で苦しみを味わわなければならないということが一般に信じられていた。贖宥はそもそも現世で罪を犯した人間がそれを生前に取り消して貰うというものだったが、これは現世を去り煉獄で苦しんでいる故人にも有効とされた。「親孝行をしようとした時にはもうその親がこの世にいない」ということはよくあることだが、脛に傷がある親を持つ人々にとって、贖宥状の購入はまさに「親孝行」となった。これが贖宥状の販売実績を伸ばしたとされるが、こうした贖宥状販売が自領地に及ぶのを面白く思わない領主がいた。それが、「賢公」と呼ばれたザクセン選帝侯フリードリヒである。彼は多数の聖遺物を所有し、それらを領民に拝観させて耳目を集めていた。

   聖遺物とは、イエス・キリストや聖母マリアおよび諸聖人の遺物や遺体の一部のことで、これに拝むことで神から恩寵を受けることができると信じられていた。したがって、この効能は贖宥状と競合するものであり、贖宥状販売はフリードリヒにとって、自分のお株を取られるようなものだったのだ。こうして、フリードリヒはローマ教皇の意を受けて贖宥状販売を進めようとする神聖ローマ皇帝に反旗を翻し、ルターをザクセンのヴァルトブルク城に匿ったのである。因みに、聖遺物に含まれた「キリストの遺骨」は千人分もあり、こうした事実から、聖遺物拝観というイベントがインチキであったと言うこともできる。そう考えれば、「賢公」も教皇も五十歩百歩であったのかもしれない。ともかくここでは、民衆は神学理論を詳細には理解せず、素朴な信仰心で贖宥を求めていたことが分かる。

 こうした素朴な民衆は、宗教改革に際してどのようにその支持を表明したのだろうか。参政権も無く文章も書く能力の無い宗教改革派の民衆は、「宗教改革の支持者は何をすべきか」ということを重んじることで、自らの宗教的立場を発現させた。その分かりやすい例が、聖画像破壊運動である。宗教改革派のアジテーターは民衆に分かりやすいよう神学説明を単純化したが、それが極端な二項対立を意識させ、目に分かる「行動」の実践や支持が信仰の証明ということになった。

 当時、カトリックによるマリア像の崇拝が行われていたところ、偶像崇拝に否定的な宗教改革派がこれを非難し、スイスのチューリヒなどで多くの民衆が破壊運動へ熱狂的に参加する事態となった。これにはカトリックの奢侈に対する反感や、破壊に乗じて盗んだ奢侈品を転売することで金儲けをしようとする動機もあったものと考えられるが、注目すべきは、聖像崇拝に参与した民衆と聖像破壊に参加した民衆が、ほぼ一致していたということである。つまり、改革前はマリア様にひれ伏していたその人が、改革後に一転してマリア像を破壊する側に鞍替えしてしまうことが大いに有り得たということだ。このことは、彼らの動機が精緻な神学理解に基づくものではなく、身近な日常や個人の感情に即した素朴なものであったことの証左である。

   この時、宗教改革派が優勢を占める地域の教会芸術職人は失職を余儀なくされるが、一方で彼らは宗教改革派に同情的な面もあった。ここは単純な既得権益の議論では説明できない。こうした人々は今まで培った技術を活かして宗教改革派の思想宣伝を担う木版画職人に転向したともいわれる。

4. 結婚と異宗派併存

 さて、ここからは宗教改革がもたらした種々の改革の話に移る。第一に挙げられるのが、聖職者の還俗、すなわち独身でなければならなかった聖職者が婚姻を結んで世俗の人間に戻るということである。修道院での厳しい修行と戒律に反感を抱いていたルターは、修道制を否定し、禁欲の独身制を否定し、結婚による還俗を奨めた。これには、カトリック的な階層制を否定すべきという表向きの考えと、聖職者たちが自分の性的欲求を我慢できなくなったという本音があった。還俗した聖職者の結婚式は宗教改革派のプロパガンダ儀式となった一方、カトリックは結婚相手となる女性の卑俗さを強調してそれを批判することが頻繁であった。

 ところで、当時は男性人口に対して女性人口が多かった。これは、不摂生や喧嘩や戦争のために男性が女性よりも多く死亡したことによる。この不均衡を正すため、貴族や裕福な家庭は一定数の娘を修道院に送り込むということをしばしば行った。ルターの妻もそのような貴族の娘である。修道女は意に反して牢獄に放り込まれた身分であり、結婚への欲求は潜在的に大きかった。このことは、宗教改革派の支持基盤を築く一助となったのである。ただし、男性の場合、修道士というのは出世コースを意味した。しかしそうした男性もやはり妻帯を望むことが多く、ファムーラと呼ばれる役割の女性と同居することも少なくなかった。ファムーラとは、形式的には身の周りのお手伝いをしてくれる家政婦のような女性のことだが、実質的には妻の役割を果たした。こうした願望はカトリック教会のモラルに反した姿勢で、しかも神に認められる公式な結婚への欲求があったところ、ルターの個人的な内面問題は、当時の聖職者が抱えた心の悩みに解答を与えたということになるのだ。

 宗教改革に伴い、神聖ローマ帝国各地の領邦や自由都市はその改革を導入するか否かを決断することになるわけだが、「聖なる共同体」たる都市共同体が宗教改革導入を決めた場合、様々な問題が生じた。宗教改革は、ドイツ農民戦争(1524-25)に代表される農民反乱の失敗によって転換期を迎え、「下からの改革」は「上からの宗教改革」へとベクトルを変換されることになる。その帰結が有名なアウグスブルクの宗教和議(1555)であり、ここでは領邦君主が領民の宗派を決めなければならないと定められた。つまり、領民たちは自分の意思で宗旨を決めることができなくなったのである。この場合、どちら一方が圧倒的に優勢な土地であれば単一宗派でやっていけるかもしれないが、カトリックと宗教改革派がひしめく自由都市では、両宗派が公認されることになる。以下で取り上げるアウグスブルクやドナウヴェルトなどの南独都市はまさに両宗派併存都市だった。しかし、「聖なる空間」たる都市城壁内は信仰について統一的でなければならないという理解が当時にはあり、これはその理解と矛盾するものだった。というのも、宗教は生活と不可分に結び付いた共同体の維持に関わる問題であり、政治と宗教の一体性は社会的な前提であったからだ。そうなると、当然ながら両宗派併存都市は宗派対立に悩まされることになる。

 ここではアウグスブルクにある聖ウルリヒ教会の共同利用に関する例が挙げられる。ここでは両派が壁一つを隔てて教会堂を利用してたいたものの、宗教改革派の側には説教壇と鐘が欠如していた。利害を調整するべく動いた市政府の指令を受けて、教会の所有権を持っていたカトリック側は説教壇の提供に同意するも、その際に加えて要求された合鍵の引き渡しには否定的だった。結局、カトリック側は渋々ながら市政府の命令に従ったが、ここではカトリック側は宗教改革派を「異端の輩」、宗教改革派側はカトリックを「瀆心の徒」と見ていた。またある時、スペイン王フェリペがアウグスブルクを訪れた際、警備のために随行していたカトリックのスペイン軍兵士が宗教改革派の礼拝堂を見て狼藉を働くという事件があった。市政府はのちに修復へ協力するが、その際にカトリック側の妨害があったという。礼拝堂については、カトリック側が改築をしようとした際にも宗教改革派の抗議があり、常に「教会がどちらの所有物か」という問題が潜在していた。同じ空間を共有するという点では、カトリックによる中庭救貧活動も問題となった。教会の中庭は両派の共有スペースだったのだが、カトリック信徒が中庭に貧民や浮浪者を集めて救貧を施すのを、宗教改革派は「神の意志にそぐわぬ身の立て方」と非難した。

 空間の共有という問題は、ヴェストファーレン条約(1648)で一応の決着を見ることになり、宗教改革派は所有権を共有した。その決着の背景には、「宗教的寛容」理念が一般信徒には届かぬものであった中、世俗の市政府による迅速で公平な調停がなされたということがある。宗派対立の妥協的結果として異宗派が併存し、その間に「意図せぬ副産物」として現実主義的世界観が醸成されていたというわけである。

 空間の奪い合いという面では対立が頻繁に起こったようだが、一方で異宗派間の結婚は意外にもかなり一般的だった。三十年戦争という宗派対立の激化した非常時を除いては、結婚と宗旨は区別されていたものと考えられる。二宗派共存体制は異宗派間の結婚を促進し、結婚の公認は情勢次第だったが非公式に男女関係を結ぶ事例も少なくなかった。ただし、当時の恋愛観や結婚観を語るには史料的制約があるため、ここは難しいテーマだろう。

5. 改暦と「行列」を巡る紛争

 両宗派が併存するアウグスブルクでは、暦を巡っても論争が起こった。これは、カトリックの「意図しなかった」反撃と位置付けられる。ローマ教皇グレゴリウス13世は、科学的合理性を重視してユリウス暦からグレゴリウス暦への改定を行った。市政府が新暦を導入しようとするのに対し、宗教改革派はアウグスブルク宗教和議が禁じた宗教への世俗の介入として反対するも、市政府は宗教改革派の祝日だけ旧暦に基づくこととして調整した。

 すると問題になったのが四旬節である。四旬節とはキリスト教世界で肉食が禁じられる時期であり、今や観光資源としても有名な謝肉祭(カーニヴァル)はその直前のお祭りである。ここで頭の体操をしなければならないが、宗教改革派が新暦と時間的にズレのある旧暦を採用したとなると、同市では四旬節が一年に二度もやって来ることになる。そして、当時のアウグスブルクで精肉業を営んでいたのは大多数が宗教改革派であった。宗教改革派の精肉業者はカトリックなら肉食を許されているはずの旧暦の四旬節に販売を拒否したため、カトリックは宗教改革派の四旬節にもお付き合いして肉食を絶たねばならぬことになり、これはカトリック住民の不満を起こした。だがこれは裏を返せば、いくら宗旨が違えども宗教改革派の業者がいなければカトリックも肉食ができずに困るという、一種の「腐れ縁」がそこに成立していたということである。

 こうしたこともありつつ、市政府は改暦を布告する際、これは宗教改革派がカトリックに屈服をしたわけではないことをも平和維持のためにはっきりと通告した。市当局と聖職者との間に生まれた、旧来の思考を乗り越えるメンタリティが、何とか両者の衝突を抑えていたのである。

 アウグスブルクは両宗派の共存が維持された好例だが、やはり上手くいかなかった例もある。それがドナウ河畔の帝国自由都市ドナウヴェルトである。そこではカトリックが宗教上の行進式として聖遺物や旗を掲げて行う「行列」が問題となった。これは、カトリックの「意識した」反撃と位置付けられる。当時、ドナウヴェルトは宗教改革派が多数を占め、宗教改革を導入していたが、少数派のカトリックにも配慮せなばならない状況にあった。市政府は当初「行列」に譲歩しその遂行を認めるが、「不治の病が治る」という奇蹟を信じた一般民衆が熱狂して「行列」へ参加し市内を練り歩く様子を見て、宗教改革派は「行列」を妨害する行動を取った。市政府は皇帝から宗教和議の内容を履行するよう厳命されるが、市政府は対応を怠り、過激化する宗教改革派を鎮めることはしなかった。1606年4月25日、大祈願祭を祝うカトリックの「行列」中に「ドナウヴェルトの旗争い」という殴り合い蹴り合いの騒擾が起こってしまい、両派の不満は爆発した。両派の騒擾は明らかな宗教和議違反とされ、同市は帝国追放という重罰を受けた。つまり、自治権を剥奪されたのである。これに乗じて隣国のバイエルン大公はドナウヴェルトを武力占領し、彼は同市をカトリック化して自領に併合してしまった。市民の抑えきれなかった宗派対立感情、都市政府の古い意識と安易な対応が、帝国自由都市を崩壊させたのである。

----------------------------------------------

 以上がこの本の概要であるが、最初に挙げた注目点に即してまとめを述べ、結びとする。

 第一に、一般民衆は宗教改革を巡る神学論争をどこまで理解していたのか。一般民衆は、神学論争はほとんど理解せず、悪徳聖職者たちへの素朴な不満が改革を支持させた。カトリック教会の奢侈や卑劣な金稼ぎが彼らの反感を呼び起こし、それが宗教改革派の支持へと繋がったわけである。聖画像破壊運動といった過激な行動は、彼らの信仰態度の素朴さを表している。

 第二に、宗教改革派はメディアを介して民衆にどう宣伝活動を行い、どこまで効力を持ったのか。宗教改革派はキリスト教徒に通じる「記号」を用いた図像宣伝を積極的に展開し、単純な図式化で各地の多数派を確立した。指導層の若さを考えれば、これは新メディアを用いた「若者の反逆」とも言えるのではないか。また、それに対抗したのもカトリック若年世代だった。ここでは十分に語り得なかったが、カトリックも防戦一方だったわけではない。のちの対抗宗教改革運動でイエズス会が演劇による思想宣伝を行ったことは、彼らが何もメディア戦略に全く長けていなかったわけではないということを示す証左であろう。しかし、そうした新メディアの「分かりやすさ」志向は、少数エリートによる煽動と一般民衆の熱狂をもたらしたのだ。

 第三に、空間を共有する異宗派間でどのようなコンフリクトが生じ、それを世俗権力はどう調整したのか。主に教会共用と祝祭紛争においてそのコンフリクトは先鋭化したが、世俗権力はアウグスブルク条約の強制もあって原則的に調整的役割を担った。ここで著者は異宗派間で頻繁に妥協的な交渉が行われてきたという「環境」が生んだ新思考の現実主義、世俗当局と聖職者たちとの間での高度な政治的駆け引き、そして住民の自制が大きな役割を果たしたと何度も主張している。しかしながら私としては、その前提としてアウグスブルクの宗教和議という上位権力による「寛容」を強制する力学が働いていたことも、最後に指摘しておきたい。

 次回の文献紹介は、小山哲(2013)『ワルシャワ連盟協約(1573年)』(東洋書店)です。

0 件のコメント:

コメントを投稿