2017年10月11日水曜日

文献紹介:エッカルト・ビルンシュティール / アンドレアス・ラインケ「ベルリンにおけるユグノー」(ドイツ語)

 初めての文献紹介で扱う文献は、Birnstiel, Eckart und Andreas Reinke1990“Hugenotten in Berlin”Von Zuwanderern zu EinheimischenHugenotten, Juden, Böhmen, Polen in Berlin, Berlin : Nikolaische Verlagsbuchhandlung(邦題:エッカルト・ビルンシュティール / アンドレアス・ラインケ(1990)「ベルリンにおけるユグノー」『移民から住民へ―ベルリンにおけるユグノー、ユダヤ人、ベーメン人、ポーランド人』ニコライ出版書店)である。ここでは19世紀にドイツ統一を主導することになる近世の軍事大国プロイセンが舞台となっており、ユグノーというのはフランス系のカルヴァン派信徒、つまり近世フランスで少数派を占め、17世紀後半に国外へ亡命していくことになったプロテスタント信徒のことである。

 当書の位置付けや論点について、大きく次のことが言える。一つに、ベルリンの壁崩壊前の1980年代に西独で執筆されたベルリン移民史の本格的概説書であるということ。事実究明が主で、近世から近代にかけて「移民」が「住民」へ「同化」する過程を描いているということ。近世においては君主の保護下で移民・難民が共同体を形成し、近代の国民国家的改革によって共同体が解体される過程が示されているということ。その中で、ユグノーは「同化」の「成功例」として当書の第1部を構成している。

 私としては、この文献についてまとめるにあたり次の注目点を挙げておいた。第一に、ユグノーはホスト社会へどのようにして統合されたのか。第二に、難民と現地民との間にどのような問題が生じ、それはどう調整されたのか。第三に、ユグノーはベルリンとプロイセンの経済や文化の発展にどう貢献したのか。第四に、ユグノーが宮廷教師としてホーエンツォレルン君主に及ぼした思想的影響はどの程度のものだったのか。こうした点に着目しつつ、今回は話を進めていきたい。

---------------------

1.ユグノー受け入れとそれに伴う諸問題

 16世紀、ヨーロッパでは宗教改革の動きが強まった。ドイツのルターのそれが有名だが、フランスでもスイスのカルヴァンに影響を受けたユグノーたちの改革運動が生じた。フランスでの状況については、 ムールによる研究が詳しく、日本語にも翻訳されているのでそちらを参照されたい(ムール(1990)『危機のユグノー―17世紀フランスのプロテスタント』教文館)。この間、フランス改革派信徒による教会会議体制が確立し、彼らの自治的機能は亡命先でも生きることになる。宗教的のみならず行政的にも自立傾向を示した彼らは、カトリック王権との対立を引き起こすことになる。王権による迫害も強まり、ヴァシーの血浴(1562)やサン・バルテルミの虐殺(1572)などはその有名な例である。カトリック信徒とユグノーは内戦を経て、ようやくナント王令(1598)により地位を確保され、ユグノーへの寛容政策が行われるも、カトリック側がユグノーに不利なようにナント王令の内容を解釈するようになったため、王令は実質的に無効化してしまう。17世紀には改宗工作や強制改宗による信仰統一化が目指され、それと並行してユグノーの国外亡命が大規模ではなくとも増加していった。「絶対主義」の代表的君主として有名なルイ14世(在位1642-1715)がフォンテーヌブロー王令(1685)で国内の人々にカトリックへの改宗を義務付けると、ユグノーは「大脱出」を行った。フランス国内に居た90万人のうち20万人が国外へ違法な亡命をして、そのうち2万人がブランデンブルク=プロイセンへ向かったのである。
 
  では、主要な受け入れ先の一つとなった後進国ブランデンブルク=プロイセンは、当時どのような状況にあったのか。17世紀後半は、戦災復興と中央集権化の時代であった。三十年戦争(1618-1648)による戦場化、大規模な人口移動と人口減少は、ブランデンブルク=プロイセン全体で5割、首都ベルリンでは4割の人口喪失をもたらしていた。そこで、人口を補填するためにも、都市開発のための技術や知識を導入するという意味でも、宗教的少数派の受け入れが行われたのだが、ユグノーもその一例だった。常備軍形成のための税金を巡る中央の君主と領邦議会に議席を持つ地主貴族(等族)との政治闘争、そして君主やその僅かな側近のみがカルヴァン派を奉じ、等族や大多数の臣民がルター派を奉じていたという複雑な状況は、概して「君主vs等族」≒「中央vs地方」≒「カルヴァン派vsルター派」という二項対立を生じさせていた。この対立状況と関連して、君主は自分たちに近しいカルヴァン派官吏を介した中央集権化を図り、その中でカルヴァン派であるユグノーの積極的登用が行われていく。ここで濫発された受け入れ宣言や特権付与は、領邦君主である選帝侯のイニシアティヴで全て行われ、ブランデンブルク選帝侯・プロイセン王の保護下で信仰難民の特権や地位は持続したのである。

 ポツダム勅令が1685年に発布されたことは、ユグノー大規模受け入れの嚆矢となる。同令はユグノーを「同胞」として支援し、彼らとの友好に反する行為を厳禁するというものだった。居住・営業・兵役免除・ツンフト加入などに関する諸特権もユグノーに付与され、貴族出身者にはその地位に相応しい称号や官職、年金を付与することが決められた。勅令の内容が口頭で伝わったこともあり、多くのユグノーがブランデンブルク=プロイセンを目指したといわれる。

 受け入れに伴っては、様々な問題が生じた。ごく簡単にまとめれば、勅令の適用範囲に関する問題(17世紀初頭までの法整備で拡大)、「臣民」としてのユグノーに関する問題(ポツダム勅令では曖昧も、のちに臣民へ統合)、施設利用に関わる問題(ドイツ系信徒と時間割を巡り衝突、君主が介入するも未解決)、貧困に関わる問題(カルヴァン派信徒の献金や宮廷からの援助でカバー)、教育機会に関する問題(フランス人学校設立、フランス人教会の監督と援助に頼る)、教区巡察に関する問題(君主は巡察の遂行を優先、ユグノーの嘆願を退ける)、出自に関する問題(出身地が不明だったところ、17世紀末より証明書類の提出を義務化)といった問題が生じたが、ここには法整備や献金活動によってある程度解決したものと、現地民との衝突を惹起したために根が深くなかなか根本的解決に至らなかったものがあった。

 ユグノーたちはフランス人改革派共同体を受け入れ先で成立させ、その自律性も高かった。以前よりベルリンへ亡命していたフランス人は小規模な居住地を形成していたが、こうした共同体が受け入れ先の基礎を作った。居住地内ではフランス語による礼拝や教会規律の遵守が徹底的になされた(ただし君主は上級宗務局を介して巡察官を派遣し、居住区民の私生活まで宗教倫理的に監督した)。選帝侯・国王はフランス改革派教会唯一の首長としてユグノーを保護・監督することになる。共同体内のフランス人同士の係争事項はフランスの司法でフランス人仲裁判事が処理し、「コミッサリア・フランセ」という役職が中央政府でも設けられ、世俗的な行政の面で君主は間接的に責任を持った。

 しかし、こうした自治的な行政の在り方は、プロイセン国家改革による行政の再編によって変革をなされる。19世紀初頭、ナポレオン戦争で近代化の必要を感じたプロイセンは、シュタイン・ハルデンベルク改革に伴う行政再編で、特権を付与された近世的社団である「国家内国家」を解体した。独自の裁判制度や世俗行政は廃止されたのである。ここで、特権的「臣民」として生きるか、ドイツ人と「同化」するかという論争がユグノー共同体内で起こるが、いずれにせよ保護者であるプロイセン王への忠誠は変わらなかったのだ。

2. ベルリンのドイツ人とフランス人

 ユグノーは1699年までに13,847人がプロイセン領へ到来し、そのうち8,622人がベルリンへ定住したとされる。受け入れ開始から1701年までユグノーは増加傾向にあり、最大時には都市人口の四分の一になった。ベルリン全体の人口増加は続くが、1701年以降ユグノーは相対的に減少傾向にあった。18世紀末までにはユグノーの絶対数も減少し、都市人口の5%を下回った。

 現地民との融和の具合を見る上で分かりやすい指標になるのは、ユグノーと現地民との通婚率であろう。ユグノーはベルリンの都市部に集住したことから現地民との接触が多く、都市部から外れた地域にユグノーが集住していたヘッセンとは対照的だった。16761812年にベルリン在住のユグノーの婚姻率は拡大し、特に第三世代よりドイツ語の普及とともに混血婚が増加した。混血婚に際して名士連が仲介者となったヘッセンと対照的に、ベルリンでは階層間の相違が無かったとされる。ユグノーと結婚したドイツ人はユグノー共同体に加入し、特権に与ることができたため、このことが混血婚を推進する要因になったのではないかということも指摘されている。

 ベルリン市街区におけるユグノーの生活・居住拠点としては、17世紀に新設された新街区が中心となった。新街区に多くのユグノーが定住し、三十年戦争で空き家となった家々もユグノーに分配された。奢侈品の需要が高い宮廷の付近にはユグノー系手工業者による工房が存在していたことも、居住地域の傾向だった。例えば、ベルリン在住ユグノーの三分の一はドロテーンシュタット地区に居住し、同地が自治権を得るとユグノー出身のランボネやフールノルが区長に就任した。フリードリヒシュタット地区にもユグノーが多く定住し、経済活動の中心となった。同区には1705年に最初のユグノー独自教会であるフランス大聖堂が設立されている。比較的ユグノーの少ないフリードリヒスヴェルダー地区には官吏や学者が居住し、同区はフランス人宗務局やフランス人裁判所の存在でユグノーの行政的中心となった。

 ドイツ人とフランス人との共生における問題は数多くあったが、目ぼしいのは貧民救済に関する問題だった。当初、貧しいユグノーのために募金活動がなされるも、異郷からの新奇な人々に対する市民の態度は冷淡であり、中央政府の意向による強制献金もなされるほどだった。また、食料品がユグノーの支援に充てられて物価が高騰し、このことは現地民の不満を惹起した。教会施設の利用に関する衝突もあり、ルター派牧師がユグノーとの教会の共同利用を拒んだ例も報告されている。しかし、当書ではこれらはあくまで「初期障害」とされ、18世紀を通してユグノーに対する不信は消えていったと結ばれている。
 
3. ベルリン経済におけるユグノー

 ユグノー受け入れの都市となった1685年のベルリン経済の構造は、農業が優位を占め、市民層が育っておらず、商業活動は宮廷からの支援が不可欠だった。また、三十年戦争で多くの商工業者が消滅し、国内市場の貧弱さも際立っていた。

 こうした状況にあって、ユグノーは職業身分的に現地の社会へ統合され、経済発展の動力となる。ベルリンの手工業は当時ツンフトという同業組合により担われていたが、ユグノーは特権を享受しツンフト加入を認められる。しかし、現地の手工業者は特権的なユグノーの参入に反対して選帝侯に苦情を訴え、ユグノーには過大な加入条件が課されることにもなった。ユグノーの中には免税期間に独自のイヌング(ツンフトとは別形態の同業組合)を設立し、主に靴下・手袋・皮革を製造して、現地民とは別の商業領域に属するようになった者も少なくなかったが、競争的なイヌングは政府から統制的な経済政策の障害とされ、現地民との共同経営が推奨された。共同経営が普及する中、女性・児童労働などに関して慣習を巡る衝突があった一方、フランス人によるドイツ人への技術伝播が進んだ。移民に対するルサンチマンにもかかわらず、職業身分の上でもユグノーの統合が進んだのだ。ユグノーの技術的優位はその技術伝播によって消滅し、ルサンチマンも影を潜める。

 経済的な革新活動も、ユグノーたちによってなされた。新奇な製品や産業部門、新しい組織形態の導入は、16761756年にかけてユグノーの三分の一が産業部門に従事していたことから、プロイセンの産業に実りをもたらした。同じ頃、産業部門に従事したユグノーの三分の二は繊維・衣類産業に従事していたといわれる。様々な失敗を繰り返しながらもユグノーの経営者が多くのマニュファクチュアを経営していたのである。

 ユグノー企業家への特権付与と助成も、以上のような活動を促進した。期限付きの免税特権などに加え、起業のための前貸し金や助成金がユグノー企業家を助けた。また、関税や間接国税、輸入規制による国内産業保護政策も、外国製品との競争を回避することに功を奏した。ユグノーの繊維・衣類業者は、宮廷や軍隊が大口顧客となることで安定した収入を確保する。このことは、ユグノーの活動が王侯貴族の奢侈や国家的な軍需と密接に結び付いていたことの証左でもある。ただし、国家による支援は国家による監督と表裏一体だった。統合的な国家の経済政策への組み入れは、難民であったユグノーを「一般市民」にしたのだという。

4. ベルリンの文化生活におけるユグノー

 ユグノーのアイデンティティを考える上で分かりやすい指標は、彼らの母語であったフランス語の使用である。ユグノーは高地フランス語を話し、方言の多いカトリックとは対照的に言語的統一性を形成していた。洗練されたフランス語に熟達したことは、ユグノーたちの威信を高めた。また、ユグノーのベルリンへの流入により、フランス語由来の単語や慣用句が生まれた。一方でユグノー・フランス語にはドイツ語に由来する語彙も入り込んだ。18世紀にドイツ化が進み、フランス語は礼拝用言語としてのみ使われるようになっても、ユグノーのフランス語文化への執着は強く、フランス人学校でのフランス語授業は残存する。だが、19世紀に入ると姓名のドイツ化も始まり、ユグノー・フランス語は日常から消滅した。

 ユグノーは言語文化のみならず、政治思想などの面でも影響を及ぼした。ホーエンツォレルン宮廷で王子の教育者として雇われたユグノーたちがそれである。16941814年までホーエンツォレルン君主はユグノーの宮廷教師を迎えていた。マルト・ド・ロクール(フリードリヒ・ヴィルヘルム1世とフリードリヒ2世の養母)やジャック・エジド・デュアン・ド・ジャンダン(フリードリヒ2世の教師)が有名な事例である。養母はフランス式の躾を、教師は政治教育や古典教育を施した。特にデュアンは「大王」と呼ばれるフリードリヒ2世へ啓蒙思想を伝え、ヴォルテールの著作に親しませた。フリードリヒ2世よりのちはカルヴァン派の宗教教育が廃止され、国内他宗派への「寛容」な態度を教育するようになった。

 最後のユグノー教師は、ジャン・ピエール・フレデリク・アンシヨンである。彼はのちに1848年革命に直面することになるフリードリヒ・ヴィルヘルム4世を教育し、文学に熟達していたことから、個人的な友人であったユグノー作家フリードリヒ・フーケー(元プロイセン軍将校で、ライン川のローレライ伝説をモデルとした小説『ウンディーネ』の作者)も紹介している。ただしアンシヨンは良くも悪くも前時代的な人物だとの評価が強かった。つまり、彼は「啓蒙思想の落とし子」であって「革命家」ではなく、「世界市民」であって「ナショナリスト」ではなかったのである。また当時、王子の教師を務めた人間は他にもおり、その中には後世に名を残すことになる戦争学者シャルンホルストや法学者サヴィニーらが含まれ、彼らに引けを取っていた。とはいえ5代にわたる君主たちがユグノー教師からフランスの母語とフランスの交際形式を学んだことは事実である。彼らが当時のフランスの政治・哲学・文学に精通できたのはユグノー教師のお陰であり、こうしてプロイセン宮廷は18世紀ヨーロッパのあらゆる宮廷の中で「最もフランス的」となった。フランス文化は、プロイセン国家における一流の文化として浸透したのである。

-------------------

 以上が概要であるが、最初に挙げた注目点に即して、ここでまとめを記しておきたい。

 第一に、ユグノーはホスト社会へどのようにして統合されたのか。彼らはやがて国王への臣従礼を義務付けられ、書類上は「プロイセン臣民」になる。市民間では、都市部ゆえの接触の多さから各階層で混血婚が拡大し、ドイツ語の普及と姓名のドイツ化が生じていく。経済的にも、国家主導の経済政策により職業身分的にユグノーを現地の社会へ統合することが行われ、これは高い程度で成功したものと考えられる。ただし、不信や嫉妬による「初期障害」が取り除かれた過程については、少なくとも当文献に限っては説明が十分でない。
 
 第二に、難民と現地民との間にどのような問題が生じ、それはどう調整されたのか。問題の性質を三つに大別すると、次のようになる。まず、法整備の不十分さから生じた問題は、18世紀初頭までの法整備により大部分は解決されていく。次いで、貧困や教育機会に関する問題は、国内外の信仰同胞や宮廷の支援、教会のイニシアティヴにより対処され、ある程度はカバーできた。そして、現地民との衝突については、概して信徒間の衝突が19世紀まで続く一方、市民間では良好な関係が次第に構築されていくということになる。ここで注目すべきは、宮廷を中心とする世俗権力がユグノーの保護と現地民との融和に尽力していたことである。社会がある種混沌とした状況において世俗権力がどういった役割を果たし得るかということについて、示唆的な歴史がここにある。

 第三に、ユグノーはベルリンとプロイセンの経済や文化の発展にどう貢献したのか。新奇な製品や生産方式を導入し、特に繊維・衣類産業においてドイツ人へ技術を伝えた。市民層へのフランス文化の流入やフランス人による王子の教育と思想伝播も、彼らの貢献度合いを示すものとして遜色ない。ここでは、こうした役割が、難民救済というよりもホーエンツォレルン君主による計画的なユグノーの「動員」という政策の中で期待されていたことを強調しておきたい。ただし、当文献ではプロイセン興隆に果たしたユグノーの役割を高く評価しているが、ユグノーの役割に対する評価は過大との声もある。プロイセンの発展ありきで神話的にユグノーの役割を強調する叙述は戒められねばならず、亡命ユグノーの問題を考えるにあたっては気を付けておきたい。


 第四に、ユグノーが宮廷教師としてホーエンツォレルン君主に及ぼした思想的影響はどの程度のものだったか。彼らは17世紀末から19世紀初頭までフランス流の教養を諸君主に授けた。特に啓蒙君主フリードリヒ2世に対するデュアンの影響は大きかったとされる。昨年に山川出版社から出た屋敷二郎(2016)『フリードリヒ大王』にもそのような記述がある。因みに、この文献もいずれ取り上げるつもりである。またフランス文化を好んだ同王の周囲にはユグノーが多かったことは、数々のフリードリヒ2世伝でも指摘されているところである。ただし、彼らの「教養」には時代的制約があり、近代化の過程でお役御免となった。19世紀は、啓蒙主義ではなくナショナリズムの時代だった。それでも、18世紀にはユグノー教師は君主から敬意を向けられ、宮廷で強いプレゼンスを築いていたのである。

 次回の文献紹介は永田諒一(2004)『宗教改革の真実』(講談社現代新書)です。


0 件のコメント:

コメントを投稿