2017年12月2日土曜日

文献紹介:山崎彰『ドイツ近世的権力と土地貴族』

 今回扱う文献は、山崎彰『ドイツ近世的権力と土地貴族』である。これは、近世ブランデンブルクにおいて土地貴族の占めた位置を検討することを目的とした研究所である。著者は貴族の地域行政への関わりが疎遠となることに革命の原因を見出すという視点をある程度受け継いだ上で、紛争や抵抗をも内包した「秩序」の下での土地貴族の調整的役割に重点を置いている。

   ここで、著者は近世ブランデンブルク史を五つに時代区分している。第一局面は、15世紀初頭のホーエンツォレルン朝成立から15世紀までの回復局面。第二局面は、15世紀末から16世紀末までの好況局面、最初の発展・安定期。第三局面は、16世紀から17世紀への転換期から三十年戦争までの後退局面。第四局面は、三十年戦争終了から1720年代までの回復局面、すなわち絶対主義国家の形成期。第五局面は、1730年代から1806年のイェナ・アウエルシュテット敗戦までの好況局面。このような時代区分を基礎として、プロイセン史の序章として語られがちだったブランデンブルク史がプロイセン史とは異なった枠組みの中で論じられることとなる。

 近世ブランデンブルクにおける農民と領主との関係は抑圧的なものだったのだろうか。権力エリートであることと領主であることという二重性はどのようにして乖離したのだろうか。権力構造の変遷において宗派対立はどのような影響を及ぼしたのだろうか。

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近世ブランデンブルクの長期的循環過程

   近世ブランデンブルクの土地貴族は、城主=官職貴族として台頭することになる。1319年にアスカニア朝が断絶すると、同家による城塞支配体制が崩壊する。諸城塞は辺境伯から貴族たちの手に渡り、独立した軍事力と広大な領地を持つ城主層が幅を利かせるようになった。城主層は領邦貴族の中でも特別な存在となり、議会が開催される際には辺境伯から直々に招請状を賜った。同時に城主間では紛争が絶えず、そのために貴族の中から「盗賊騎士」が現れるようになった。彼らが領邦内外の土地を略奪して回ったため、14世紀のブランデンブルクは荒廃した。このため、15世紀に成立したホーエンツォレルン朝は城主層を懐柔し、城主層にラント平和を委ねることで秩序回復を企図した。だが土地貴族を宮廷行政へ統合することは進まず、地域支配は自律的武力を保持する城主に依存することとなる。

 16世紀になると、ルター派の宗教改革に伴って教会領を相続した貴族によって、土地貴族の村落所有数が増加する。首都ベルリン周辺では中規模以下の城主たちが拠点を構えるようになり、彼らは宮廷や身分団体の役員として表舞台に立った。この頃、貴族の所領領有は城主=官職貴族が寡占する状態となっている。1517世紀初頭には、領主直営地が増える一方、戦乱による廃村を免れた村落では農民農場がよく維持された。つまり、領主直営地は廃村に拡大場所を得たのであるが、廃村化を免れた村落は秩序回復の恩恵を得たのだ。旧村落地域に新しく土地を得た城主は村の自治的性格を奪い去ることを避け、その機能を確保しつつ自らの支配に適合させていた。その際、領主は賦役を農民への「懇請」という形で慣習化したが、時に農民は反抗し、場合によっては君主権の介入による賦役の制限がなされた。土地貴族が農民に譲歩せざるを得なかった背景として、貧弱な領主経営を支えるために農民農場の資産と生産能力が必要だったという事情がある。

 城主=官職貴族による権力支配は、権力エリートの在地的性格を示した。16世紀には新興官職貴族がブランデンブルク貴族と融合する一方、名門城主貴族が主要官職を独占していた。特に「役得」である御料地行政官(ハウプトアムツマン)の職は権力エリート間で分配され、結果的には多くの貴族たちを君主権に繋ぎ留める作用をもたらした。中央権力である選帝侯権が地方に介入する際にコミッサールが任命されたが、彼らの多くも事情に通じた地方の名望貴族であり、在地的性格は薄まらなかった。16世紀から17世紀にかけてブランデンブルクが王朝的拡大を目指し積極的外交に打って出るようになると身分団体は消極的外交を志向したため、城主=官職貴族が調整役を買い、彼らが調整役となることで秩序が維持された。このように、16世紀は比較的に安定した時期であったといえる。

 以上のような16世紀的体制は、17世紀への転換期より衰退していく。ヨアヒム・フリードリヒ(位1598-1608)の治世下では官職所有者、特に選帝侯の側近でカルヴァン派信徒が多数派となった。彼らはプロイセンの獲得交渉など王朝的拡大政策と親和性があったため重用され、領土拡大に伴って領邦外貴族も宮廷に招致された。次代のヨハン・ジギスムント(位1608-19)の治世下でも選帝侯の側近をカルヴァン派貴族が占め、宮廷行政は消極外交を唱えるブランデンブルク貴族の政治的志向と乖離していった。こうして、選帝侯の積極外交と諸身分の財政的・経済的困窮が同時進行し、ブランデンブルクは統一的意思形成を欠いたまま三十年戦争へ臨むことになってしまう。三十年戦争に際しては、ドーナによる「領邦防衛臨戦体制」構想が提案されたが、対外政策に伴った財政支出を嫌う諸身分の反対で頓挫した。

 三十年戦争後半期には、土地を荒らす傭兵軍に対処するため、親オーストリア派のシュヴァルツェンベルクが新体制を構築して軍政の統御と傭兵軍への資源提供を図った。だが、これも資金・物資提供の不足で傭兵軍将校を統制できなくなり失敗してしまう。傭兵軍将校は、連隊長・大隊長レヴェルでブランデンブルク貴族出身者が多数を占めた。戦乱に伴う土地の荒廃で御料地行政官職の利益が縮小したため、官職貴族は生き残りを期して将校職に集中していたのである。連隊長はお上から与えられる連隊運営費から恣意的にちょろまかして自分の給与を抽出することで、またも「役得」を実現させた。彼らが資金を着服したことによって将校たちへの前貸しは順調に回収されず、そのために彼らは住民からの「現物徴発」でそれを補填することが多々あった。つまり、略奪を働いたのである。結局、シュヴァルツェンベルク派は失脚した。将校たちはこうした「役得」によって資産を蓄積し、戦災復興を目指すフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯(位1640-1688)の時代には、傭兵軍での指導力と騎士身分における声望を兼ねた名門貴族が調整役となる。

 三十年戦争によって、当然のことながら農村社会は荒廃した。ベルリンなど中心都市は戦前比80%程度の人口減少を経験し、他の都市は戦前比30%以下にまで低下した。農民農場は減少し、生産力も低下し、入植者(労働力補填のために国内外から人口不足の農耕地へ移住を推奨された人々)や退役兵の参入などで農村構成が流動化した。領主は直営農場の再建のみならず入植者への支援も行わなければならなくなったために資金面で困窮し、領主の多くは所領を縮小するが、軍務で資産を蓄積した貴族は資金融通役として台頭する。城主=官職貴族層の「鬼子」たる傭兵軍将校が16世紀的体制の「破壊者」となったのだ。

 宮廷社会と権力エリートの構成も変化し、宮廷中心の国家統合が進む。御料地行政官職が市民出身の専門家による経営に移行して「役得」は消失し、御料地収入も中央金庫に集約化されて宮廷官職が重視されるようになる。選帝侯はベルリンやポツダムを中心に「宮廷都市」を建設するために貴族から領地を買い上げ、新興宮廷エリートが宮廷都市を囲むように土地を求め、伝統的貴族層は周縁へ追いやられた。1650年代からはポンメルンやプロイセン出身の貴族が宮廷の重役を務めるようになり、領土拡大に伴って貴族の出自も多様化し、同時にカルヴァン派信仰も浸透した。ブランデンブルク貴族は宮廷で立場を失い、小貴族を中心に軍隊へ転出した。

 やがて、軍政組織と軍事・租税財政も確立されていく。総軍政コミッサリアートとクールマルク軍事金庫が収入を集約し、アクチーゼ(間接国税)など租税制度の基盤となる経済過程も育成された。対スウェーデン戦争に際しては軍事金庫も成立したが、当時は行政官や将校の個人的な資金融通力に頼っていた。こうした資金は外国から融通されることが少なくなかったため、17世紀前半の軍人王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(位1714-1740)の時代には国家的従属を憂い対外戦争への関与が避けられ、計画的財政運営の確立が優先された。

 再建下の農村社会では、領主が農民への人格的拘束を強めた。これは一方的な「抑圧」というより、戦災で資金や土地を欠いてしまった領主が農場の引き受け手を確保したいという「売り手市場」の裏返しであった。農民も決して「従順」ではなく、恒常的に反領主闘争が繰り広げられ、領主裁判権による調整も入った。この際、領主は伝統的慣習に寛容であったが、その背景には中央から派遣されてくるカルヴァン派や敬虔主義派の教会巡察官と地方領主とが対立していたことがある。領邦内の土地貴族のほとんどはルター派正統主義を信奉しており、宗派上の対立がここに影を落としていた。宮廷エリートたちに対する「防波堤」として、ルター派正統主義と農村社会が連携していたのである。

ブランデンブルク=プロイセン国家と農場領主制

 三十年戦争終了前の御料地制度はかなりお粗末なものだった。御料地財政の金庫制度は中央からの支払い指図書によって緩やかにまとめただけであり、資産目録作成や定期的会計報告の軽視、会計コントロールの不在など、凄惨たる情報の欠如が支配するガバガバなものであった。ここでは、中央へ資金を確実に調達することよりも、官職保有者間で「融通が利く」ことが念頭に置かれていたようである。こうした状況を不都合と見たのか、17世紀後半には中央集権化政策との関連で御料地行政改革が行われる。旧ブランデンブルク土地貴族が分散的に支配した御料地行政は宮廷行政官に集権化され、資金管理には地縁を持たない実務官僚が参入する。一方、農民は領主が譲歩する「売り手市場」を利用し、敢えて領主の支配下へ入ることで、自弁を避けて賦役・貢租の固定化や減免を勝ち取るようになっていた。

 18世紀初頭の御料地改革は、中央集権的性格を更に強めた。政府は「規範」としての予算によって計画的に税制を運営し、御料地経営から家産的性格が抹消された。この背景には、領主の実力による農民保護機能が消失し、土地が従来の自治的・軍事的な役割よりも中央政府との関連で投資的・経済的な役割を強めたことがある。土地貴族は、宮廷への財政収入供給と、脆弱な農民経営への投資という二重の社会的役割を担うように変容した。

 農村税制と農場領主制も変容する。17世紀後半にはショッスという土地貴族から中央政府への「自発的」援助に代わり、中央政府から土地貴族へ課すコントリブチオン(地租)が導入され、恒常化した。ただし、地域間で負担の不平等が生じたり、農民の租税負担能力の不安定さや連帯責任制の未熟さが問題になるなど、この税制は全てが円滑に進んだわけではなかった。農民が支払い能力を失った場合は「租税支払い保証」を領主が担うことで、納税義務者の自律性と引き換えに領主が租税を政府に代納した。しかし、領主がそれを更に滞納する場合もあり、そうなると行政的手段のみならず軍事的手段が採られた。ここでは、中央政府が強制的な手段をもって領地に介入する体制が出来上がっていたということが注目される。

18世紀後半への展望

 18世紀後半の好況期においては、好況を背景として農民経営が成長するとともに、土地貴族の経済的機能も無効化する。農民層の「均質化」によって零細農民の階層上昇がもたらされ、他方で下層民の立場も明確化する。経済発展につれて利害対立の多くなった領主-農民関係は、それを繋ぎ留めようとする国家的政策介入に晒される。重商主義政策はそうした動きと並行するものであったが、経済発展と税収入との連関によって、その金融資産志向は土地貴族が領地から分離する要因となる。土地貴族は領地を持たない新権力エリートの形成や、実務的分野にける市民層の台頭によって領主的伝統を薄め、没落するか、軍隊へ活路を見出した。もちろん少数ながら領主的伝統を失わない土地貴族も存在し、例えばマルヴィッツのように開明的ながら伝統的土地貴族の伝統を保持する領主も確かに存在していたが、全般として多くの土地貴族はその権力・財政基盤を土地から分離させていったのである。

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 近世ブランデンブルクにおける農民と領主との関係は抑圧的なものだったのだろうか。従来の研究ではプロイセン史に対する否定的な見方との関連もあって農場領主制の抑圧性は強調されがちだった。しかし、農民も決して従順ではなく、また不況期においては農民が積極的に領主制を利用していた。

 権力エリートであることと領主であることという二重性はどのようにして乖離したのだろうか。近世ヨーロッパ史では「17世紀の危機」ということがよく言われるが、ブランデンブルクについては三十年戦争による土地の喪失と、17世紀後半における宮廷エリートの伸長がその中心を占めている。18世紀には、君主主導の構造変革と重商主義志向がその傾向を強める結果となった。その意味で、18世紀という時代は近世史において独特の重要性を示すことになろう。

 権力構造の変遷において宗派対立はどのような影響を及ぼしたのだろうか。著者は王朝的拡大政策とカルヴァン派勢力の親和性を指摘し、またルター派正統主義を通じた領主と農民との連携についても言及した。つまり、概してカルヴァン派とルター派との対立が君主と諸身分との対立に一致していたのである。ただし、筆者の議論ではカルヴァン派が王朝的拡大政策と親和的だった理由が明示的でなく、この点はより詳細な検討が必要な課題となろう。

 次回の文献紹介は、水島治郎『ポピュリズムとは何か』の予定です。

2017年11月8日水曜日

文献紹介:小山哲『ワルシャワ連盟協約』

 今回紹介するのは、小山哲『ワルシャワ連盟協約』だ。ワルシャワ連盟協約とは、宗派の違いを問わずキリスト教徒の間で平和を維持することを宣言した、1573年にポーランド=リトアニア共和国で結ばれた取り決めである。ワルシャワ連盟協約は、2003年にユネスコの「世界記憶遺産」に登録された。この協約をヨーロッパ史の中に位置付けるというのが、この本の特徴である。この本は、多様性の地域である「ポーランド」を舞台としたポーランド史史料叢書シリーズの一つであり、このシリーズでは一冊ごとにポーランド史の重要な史料の和訳が取り上げられ、これに注釈や解説が加えられているという形である。こうした「寛容」や「共存」が取り決められた背景については、政治的妥協の積み重ねがあったこと、そしてそれに積極的な意味が後付けされていったことも強調されている。

 私は当書について、三つの点から考えたい。第一に、この「共存」を旨とする連盟協約を付与し履行させる局面において、ポーランド=リトアニア共和国の国王は何処までのイニシアティヴを発揮したのか。第二に、宗派を単一に染め上げようとする「宗派化」の動きの中、それに逆行するような内容の連盟協約はどう位置付けられるのか。第三に、当書では連盟協約が世界史的にどう位置付けられているのか。

では、本の内容に入っていこう。

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多宗派国家ポーランド=リトアニア

 ワルシャワ連盟協約が成立した背景として、まずは16世紀のポーランド=リトアニア共和国の状況について知っておかねばならない。ポーランド=リトアニア共和国は、シュラフタと呼ばれる貴族が政治的な主導権を握る「貴族の共和国」であった。彼らが身分制議会に議席を持ち、国王と交渉しながら政治決定を行ったことから、「シュラフタ民主主義」という政治文化が根付いていた。また、様々なキリスト教の宗派、ユダヤ人やムスリムが共存する多宗教国家という、複合的社会構造がそこにはあった。

 当時のポーランド=リトアニアは東西教会の境界地域に該当していた。現在のポーランドは人口の約9割がカトリック信徒といわれるが、16世紀は約5割であった。というのも、当時の領土が現在より大きく、多くの非カトリック系信徒をも包摂する社会であったことによる。地域別に見ると、東部から東南部は正教会信徒が多数派を占めていた。だが当初、正教会信徒の国政上の発言力は低かった。1560年代に正教系の貴族はカトリックと同権化するものの、市民権の取得や同職組合への加入は制限され、民衆レヴェルではあまり平等な扱いをなされなかった。また東南部にはアルメニア教会の自治共同体が存在し、彼らは商業や手工業で活躍した。言語運用力の高さから通訳業に従事する者も多く、東方のオスマン帝国との交渉で大きな役割を果たした。このように、16世紀の共和国にはカトリック教会以外の様々な教会が併存し、これは宗教改革が波及する素地にもなった。

 では、キリスト教以外の宗教の信徒たちはどうだったのだろうか。ポーランド=リトアニア共和国は「ユダヤ人の楽園」とも呼ばれ、ユダヤ人たちが自治共同体のカハウや全国議会のヴァードを組織し、確固たるプレゼンスを築いていた。ユダヤ人の数は、18世紀には人口の10%を占めることになる。とはいえ、ユダヤ人に対する差別や不信が無かったわけではなく、一部の都市ではその経済力が疎んじられて商業活動から排除されることもあった。領主に農場などの経営を委任されたユダヤ人への不満も大きなものがあった。ユダヤ人の他には、タタール人の存在もあった。遊牧民族の血を引く彼らは軍事奉仕を期待され、彼らを受け入れるためのモスクも国内で建設された。だが一方、近隣のタタール系クリミア・ハン国との対立や、同国の宗主国であったオスマン帝国との衝突は、彼らの立場を微妙なものとした。こういった緊張もあったとはいえ、彼らはキリスト教に改宗すれば共和国内で貴族になることもできた。ここでは、人種的差別意識とは異なる原理が働いていたのである。こうした中で、国内で信仰を共有しない人々とも平和な関係を築けるという認識が醸成されていた。

 武力で改宗を迫るドイツ騎士団への批判には、以上のような認識が強く表れた。例えば、クラクフ大学の学長パーヴェフ・ヴウォトコヴィツは、コンスタンツ公会議で、異教徒も平和的共存の権利を持つ「隣人」であり、強制的改宗は不可能だとの主張をしている。また、ポーランドが侵略された場合は国内のキリスト教徒と異教徒が協力するのが正当との意見も、これに連なった。もちろん、ここにはドイツ騎士団国家と対立するポーランドの立場を正当化するという政治的な意図があったが、宗教の相違より政治的統合が重要であり、一方の信仰を他方の集団に力で押し付けるのは不適切であるという思考が働いていたことも確かである。

 さて、こうしたポーランド=リトアニアにも宗教改革の波が及んできた。宗教改革の波及に対して、当初ポーランド王権はプロテスタントを抑圧した。だが、一部の都市ではプロテスタントが優勢となり、有力貴族の一部がカトリックや正教から改宗するという事態が生じる。その結果、17世紀前半までは、新教徒の影響力が政治的にも無視できないものになる。

 ポーランド=リトアニア宗教改革の特徴としては、次の三つが挙げられる。第一に、プロテスタント内で特定宗派が圧倒的主導権を握らず、多様な改革派教会が併存したことである。ここでは、ルター派・カルヴァン派・チェコ兄弟団の三宗派が「主流」を構成し、多くの貴族がカルヴァン派に改宗した。第二に、西ヨーロッパ各地で迫害された小規模セクトや急進派が避難先を求めて移住したことである。ポーランド=リトアニアは「異端者の避難所」とも呼ばれるようになり、オランダのメノー派やイタリアの反三位一体派などが亡命してきた。第三に、宗教改革がカトリック信徒だけでなく正教徒にも及び、また正教会とプロテスタント教会に様々な接点があったことである。両教会はカトリック勢力に対して連盟協約を擁護する立場から、たびたび連携を成立させた。こうした宗教改革派はシュラフタが支持する傾向にあった。一方、バルト地域を除けば宗教改革は農民にあまり浸透しなかった。このため、ポーランド=リトアニアの宗教改革は「シュラフタの宗教改革」と呼ばれる。学歴の高い者ほどプロテスタントに改宗する傾向があり、領主層であるシュラフタたちは信仰難民を自領地で保護した。

 シュラフタが宗教改革を支持した理由としては、カトリック教会の裁判権と十分の一税の徴収権を批判したことや、身分的な特権意識から宗派選択権の保有を主張したことがある。特筆すべきは、カトリック貴族もプロテスタント貴族と特権意識を共有し、宗派を超えたシュラフタの身分的連帯意識があったことである。これは、連盟協約が成立する基盤となっていく。

ワルシャワ連盟協約の成立過程

 さて、話をワルシャワ連盟協約の成立過程へと移そう。連盟協約はヤギェウォ朝断絶後の空位期に締結されたので、それ以前の状況も説明しておかねばならない。宗教改革が波及していた当時、国内では異端禁止の王令が重ねて布告されるも、シュラフタ出身の執行官により適用されていなかった。15704月には、ルター派・カルヴァン派・チェコ兄弟団がサンドミェシュ合意を形成し、このサンドミェシュ三宗派はカトリックとの同権と平和共存を謳う憲法草案を作成した。この草案には宗教的平和共存を定める連盟協約との連続性が見られた一方、反三位一体派という特定の宗派を排除した点で連盟協約と異なった。

 ワルシャワ連盟協約は、空位問題を解決する過程で暫定的に成立した。シュラフタは権力の空白を埋めるため各地で集会を開くが、そこでは利害対立が生じ、国家分裂の危機に瀕する。そこで分裂を避けるべく、クヤヴィ司教カルンコフスキを中心として、国家の基本法を定めるための起草委員会が編成された。ここにはカトリック・プロテスタント双方の利害を代表する議員が参加した。ここでの議員たちは身分的制限に積極的であり、宗教的自由が認められる範囲に関しては特にカトリック勢力が神経質な態度を示した。

 ワルシャワ連盟協約に関しては、様々な提案がなされた。例えば、カルヴァン派のズボロフスキは、ギリシア正教会の聖書録の導入や、領民による宗派選択について記述を加えるよう主張した。また、新たな国王候補として、「サン・バルテルミの虐殺」に代表されるユグノー迫害で有名なアンリ・ド・ヴァロワの名が挙がったことから、宗教的平和原則の必要性を主張する意見も声高に唱えられるようになった。協約への反対派がカトリック教会の教義的な立場が揺らぎ、物質的な基盤が崩壊するのを危惧する一方で、賛成派は西欧諸国に見られる宗教的理由による内乱や虐殺を防ぐことの重要性を強調した。やがてアンリ当選の可能性が高まると、プロテスタント貴族は選出の条件として協約の締結を訴えた。これを正教徒の貴族とカトリック貴族の一部が支持し、更にヘンリク諸条項で貴族の特権を保証することになった。連盟協約は統治契約の中で言及されることによりシュラフタの基本的権利を保証する文書となったのだ。

 こうして即位式を迎えたアンリは、宗教的共存を約束したのみでヘンリク諸条項は未誓約のまま、その夜に逃亡してしまう。代わりにトランシルヴァニア公ステファン・バトーリが国王に選出され、諸条項と協約に同意した。紆余曲折はあったが、ワルシャワ連盟協約は暫定的な協定から共和国の基本法としての効力を獲得したのである。

 ただし、このワルシャワ連盟協約の内容には問題点もあった。協約は空位期の安全と秩序の確立を旨とし、当初は暫定的な内容であったものの、のちに恒久化したのであるが、違反者に対して具体的にどのような処罰が適用されるか明記されていなかった。また、平和共存の対象をキリスト教の特定宗派に限定するような文言は含まれていなかったことは多宗派共存を可能にしたが、王領都市の都市住民には宗派選択権を付与する一方で、農民についてはそれが曖昧なままだった。この背景には、一方で領主による信仰強制はプロテスタント有利に働くという危惧があり、他方で農民の権利を制限したいというカトリックの思惑があった。更に、この協約には多くのシュラフタが署名・押印したが、信用できる史料が少なく、署名者を確定できていない。この点は、紋章学や印章学など歴史補助学の今後の展開に待つところが大きい。

宗教的自由を巡る闘い

 複数宗派共存の実態として、カトリック信徒とプロテスタント信徒は日常的に交流し、異宗派間の結婚も少なくなかった。チェコ兄弟団のコメニウス学校、イエズス会のコレギウムといった教育の場は、他宗派の人々によっても有効な資源として利用された。市民は信仰については議論せず、礼拝の時間のみ別々の教会へ行くことで各人の宗派がようやく認識されたという。貴族は家族や友人の繋がりの中で他宗派信徒を包摂し、身分的連帯感はしばしば宗派対立よりも優先された。彼らは、宗派に対する拘りよりも高水準の教育を重視していた。

 だが、対抗宗教改革の展開がこの共存を揺るがした。皮肉なことに、むしろ連盟協約成立後から宗派対立を背景とする衝突や破壊行動は頻発する。協約の発効によって改宗の強制が禁じられると、カトリック教会は自発的な改宗を促すためにプロパガンダを展開する。イエズス会は敢えて異宗派の子弟を学校に受け入れることで、カトリック布教の機会を作った。こうしたカトリックの布教活動では、地味な活字文化重視のプロテスタントに対し、感覚に訴える方法を活用したことから、多くの耳目を集めた。

 この頃から、カトリックによるプロテスタント迫害は強まっていく。主要な王領都市でカトリックによるプロテスタント教会襲撃事件が頻発したが、その襲撃者にはイエズス会の教育を受けてカトリックに改宗した人々も少なからず含まれた。こうした事態に対し、国王ステファン・バトーリはイエズス会を保護しつつも暴徒を厳格に取り締まる姿勢を崩さなかった。しかし、次代のジグムント3世は暴動の抑制に消極的だった。ただし、破壊対象は人間ではなく専ら器物に限定され、被害者もそれを認識してその点は評価していた。

 プロテスタントへの迫害が度を増してくると、ワルシャワ連盟協約の解釈を巡る論争も生じてくる。プロテスタント貴族は処罰規定の明確化を提案するが、カトリックが反対して頓挫する。カトリックの攻勢は「協約は多数派カトリックからプロテスタントに与えられた恩恵」という解釈から「協約は「異端」を許容し国家の分裂を引き起こす有害な取り決め」という解釈まで至る。オスマン帝国など非カトリック諸国との戦争が起こると、カトリック信徒の崇敬する聖母マリアがポーランドの「守護者」にまでなる。プロテスタントのスウェーデン軍による侵略である「大洪水」は、カトリック的なポーランド人意識を高揚させた。多くの貴族がカトリックに改宗し、特に1638年には反三位一体派が追放決議を受けた。そこはもはや「避難所」ではなくなっていた。

 こうした中、カトリック教会に与するスタヴォルフスキと協約を擁護するプシコフスキとの間で論争が生じる。前者は協約を一時的な「必要悪」とし、後者は協約で保証された信仰の自由を普遍的な価値として高く評価した。理想に対する現実の先行から導き出された宗教的自由が、積極的に論理付けられたのである。ただし、これは協約擁護派の「絶望の叫び」でもあり、プシコフスキは祖国を追われてプロイセン公国へ移住する。

ヨーロッパ史の中のワルシャワ連盟協約

 近世のヨーロッパを見る際にしばしば援用される「宗派化」論から考えると、近世ポーランド=リトアニア共和国はどう位置付けられるのだろうか。「宗派化」とは、公権力と教会が特定宗派に基づいて人々の内面と生活を規律化・同質化する過程である。こう考えると、複数宗派が共存することを認めるワルシャワ連盟協約は「宗派化」にそぐわない。だが共和国は17世紀にカトリックの攻勢を経験している。これは、「遅れてきたカトリック的宗派化」(クリーグザイセン)と呼ばれる。しかし、18世紀にはプロイセンとロシアが新教徒・正教徒の保護を口実に内政干渉し、また啓蒙思想の波及は非カトリック信徒の権利向上を主張した。こうした経緯もあって、179153日憲法ではカトリックの支配が認められる一方、信仰と礼拝の自由も規定された。

 信仰選択権の問題は、「宗派化」が進んだとされる他のヨーロッパ諸国との共通性を示している。協約において選択権の規定は曖昧だったが、プロテスタント化した領主による信仰強制が見られた。しかし農民層は「宗派化」に熱心でなく、領主がカトリックに戻ると痕跡は残らなかった。一方、カトリックの反プロテスタント暴動も抑制的であり、追放決議後も「隠れ反三位一体派」は王権から黙認された。こうしたことから、ポーランド=リトアニアを「多宗派の共和国」と呼ぶことができる。そこで「宗派化」の不徹底による「多宗派性」が見られたことは、他のヨーロッパ諸国と共通するのだ。

 協約を巡っては、越境する眼差しが働いていた。協約反対派は、アウグスブルクの宗教和議がもたらしたドイツやスイスの農民戦争を意識し、協約賛成派はアンリの即位が濃厚となると「サン・バルテルミの虐殺」のような事態を防ぐことを強調した。また賛成派は「ポーランドの諸要求」と呼ばれる一連の要求で、シャルル9世にユグノーの特赦を訴え、これは一時的に発効した。彼らは、宗派対立によって破滅に瀕したフランスを反面教師としていたのである。1598年にナント王令でカルヴァン派が公認されると、今度はフランスが協約を擁護するための事例となった。

 宗教的自由を巡って、広範囲な人の移動があったことも指摘される。イタリアやドイツからやって来た信仰難民は「避難所」を高評価した。のちに追放されたポーランド兄弟団の一部はドイツを経由して「自由」なオランダへと至り、『ポーランド兄弟団文庫』を作ってオランダのスピノザやイギリスのロックらに影響を及ぼした。反三位一体派はアメリカのユニテリアン教会の源流となり、近代日本の福沢諭吉や安部磯雄らに影響を与えた。このように、宗教的自由を巡って、ヨーロッパ大陸の東西に跨る人と情報の移動・交流があったのだ。思想や信条の自由を求め国境を越える現代の人々の思いは、協約に賛同したシュラフタと共通するものではないか。

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   最後に、冒頭で挙げた注目点に即してまとめを述べておきたい。

 第一に、「共存」を旨とする協約を付与し履行させる局面において国王は何処までのイニシアティヴを発揮したのか。協約を推奨したのは国王に対抗し連携した貴族たちであり、この点では国王のイニシアティヴよりも貴族の特権意識が強く働いたことは否めない。この点は、例えば選帝侯・国王が信仰難民受け入れの音頭を取り、地主貴族たちと対抗する上で彼らを重用したブランデンブルク=プロイセンとは異なる。ポーランド=リトアニアには「貴族共和国」という特質があった。また、国王も基本的にはカトリックに肩入れをしていた。とはいえ、例えば協約の承認と同時に即位したステファン・バトーリがカトリックによる迫害を抑制しようとしたことは、その履行局面で国王が一定の役割を果たしたことの証左である。

 第二に、単一宗派化を目指す「宗派化」の動きの中、連盟協約はどう位置付けられるのか。協約自体は「宗派化」と矛盾するように見えるが、国王を頂点とする共和国レヴェルではこれを評価するのが難しいが、領主を頂点とする領地レヴェルでは協約の内容に基づいて「宗派化」が進められたといえる。しかし、領主の主導によるプロテスタント化は不徹底だったようである。上でも述べたように、これは他の西欧諸国とも共通する。更に、情勢によって協約に対する解釈は変化したが、協約と「宗派化」との関係については今も議論が分かれている。

 第三に、当書ではワルシャワ連盟協約の意義が世界史的にどう位置付けられているのか。協約は時事的状況と政治的妥協の暫定的な産物でありながら、のちに積極的な意味付けをなされた。この過程で、異宗派間の共存と協約の解釈を巡る闘争が起こり、宗教的自由を求めた移動も生じた。ポーランド=リトアニア共和国で生じた結果としての「共存」が、現実主義的判断を呼び込むこととなり、やがてその判断に伴わされた理念が「美徳」となったのである。「記憶遺産」への登録も、多元主義を肯定する根拠としてワルシャワ連盟協約が認識されていることの証左だろう。だがこうした「美徳」も現実主義が起源である以上、それが利益をもたらさないとなると説得力を失うのではないだろうか。どこを切り取るかにもよるが、欧米各地で起こっている移民・難民規制の動きを見れば、一定空間内における多文化共存が必ずしも幸せな状況をもたらすわけではないのではないかという疑念が抱かれる。宗教的自由を求める思いに現代世界との共通性を見出すのならば、私が言語化したこの問題意識も現代世界を考える上で捨象してはならないと思う。

 次回の文献紹介は、山崎彰(2015)『ドイツ近世的権力と土地貴族』(未来社)の予定です。

2017年10月23日月曜日

文献紹介:永田諒一『宗教改革の真実』

  第2回の文献紹介で扱うのは、永田諒一(2004)『宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史』(講談社現代新書)だ。この本は10年以上前に出版されたものだが、今年は宗教改革500周年ということで宗教改革に関する概説的な文献を取り上げる。安価な新書なので、この時代のヨーロッパにご関心のある方にはお勧めである。

 まず、この本の大まかな論点について述べておきたい。著者は、一次史料と先行研究の蓄積を基礎に宗教改革時の社会像を描くという姿勢で一貫している。そこでは、私がのちに述べるアナール学派の業績を踏まえ、「変化しないもの」の「社会史」研究という視角に拘った。また著者は宗教改革期における「意図された」改革と「意図されていなかった」改革を区別し、その事例を挙げている。当書によれば、宗教改革期は「近代」の始まりではなく、中世の様々な価値観や教会体制が否定されていく「リストラ期」であった。

 私はそういった当書の内容について、次の三つに注目した。第一に、一般民衆は宗教改革を巡る神学論争をどこまで理解していたのか。第二に、宗教改革派はメディアを介して民衆にどう宣伝活動を行い、どこまで効力を持ったのか。第三に、空間を共有する異宗派間でどのようなコンフリクトが生じ、世俗権力はそれをどう調整したのか。

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1. 社会史研究の発展

   社会史研究とは、「変化しないもの」の歴史である。社会史研究は、社会上層に位置する少数の政治家や知識人を取り上げて事件史を主とする19世紀のドイツ的なランケ以来の伝統的歴史学と決別し、「普通の人々」の暮らしぶりに注目することから始まった。20世紀前半、フランスのブロックとフェーブルを中心とする学術雑誌『アナール(年報)』から成立したアナール学派は、社会全体を視野に入れる「全体史」と、社会学や経済学など「歴史学の隣接諸科学」を重視し、社会史という学問分野の草分けとなった。アナール学派次世代のブローデルは、「長期的に持続する歴史」、特に「マンタリテ(心性)」の歴史を唱え、社会の中下層に注目した。変化するものを追究する学問が「変化しないもの」を追究するとは、矛盾したことのようにも聞こえるが、そこに社会史研究の面白さがある。こうした成果を踏まえて社会史研究の視点から宗教改革を捉えるというのが、著者の方針である。

 こうした社会史研究と関連して、通説が覆された例がある。ルターが『95箇条論題』を教会の扉に貼り出し、それが宗教改革の嚆矢となったという有名な話があるが、これが疑問視されるようになった。1031日」に「『論題』を(ヴィッテンベルクの)城教会の扉に張り出した」という言い伝えがこの通説の由来なのだが、これはあくまで伝聞に過ぎず、実は同日前後にルターがマインツ大司教へ「『論題』を書状で送り届けた」ことだけが確実なのである。貼付は改革運動が始まってから支持者が勝手に行ったとも言われており、『論題』の原本が存在しないために事実はより分かりにくいままである。この通説はルターの助手であったメランヒトンが執筆したルター伝で主張したものだが、この伝記は書き殴りのような内容で史料的価値は低く、はっきり言って全く信用できない。こうした曖昧さが生じてしまうのは、改革前までのルターが無名の一民衆であるために史料が少なく、16世紀というメディアが限られメディアへのアクセス手段も限られた時代の史料的制約による。このことは、歴史研究の一つの成果であるとともに、社会史研究の限界を示す事例でもある。
 
2. リテラシーとメディア

 ルターの『論題』貼付が疑わしいとすれば、有名なグーテンベルクが印刷術の「発明者」であったという主張にも疑問が持たれる。実はグーテンベルクも生前はルター以上に無名の人物であり、彼の印刷術は当時では全社会的な関心を喚起しなかったとされる。彼の伝記や業績紹介の文献も概ね死後に著され、発行年も印刷業者も記されていないものだった。これも信用できないわけである。俗に「グーテンベルクの発明」と呼ばれるものは個別技術の質的改良や事業化の総体に過ぎず、例えば活字を組み合わせて複製をする技術は14世紀からあったことから、こうした評価が妥当なようである。また、1150年に最初の製紙工場がスペインに、1390年にドイツ初の製紙工場が建設されており、この間に高価で生産速度の低い羊皮紙から安価で大量生産しやすい紙の使用へと移行していったことは、既に「グーテンベルク革命」の素地を作っていた。宗教改革派(プロテスタント)が活版印刷術を思想宣伝に利用することで、紙媒体の普及が爆発的に進んだのである。事実として、出版物の種類は宗教改革が始まる1520年代から16世紀初頭までに約100倍となった。

 だがこれだけ本があっても、字が読めない人が多数を占めれば、紙媒体を通じた思想宣伝のハードルは高くなる。当時、貴族層の半数近くと民衆の大多数は文字と無縁の生活を送っており、16世紀前半でドイツ語圏の識字率はたった5%だった。識字率には当然ながら地域差もあり、都市部では3050%で、先進的な西南ドイツほど高く、こういった地域は読み書きを教授できる学校が多かったのも特徴である。またヨーロッパの識字率の基準では、自分の名前が読み取れて書けるだけでも「読み書きができる人」と判断されるため、より厳しい基準で識字率が9割を大きく超えた近代以降の日本と比較すれば、もはや異次元である。したがって、一般民衆の間では各人の独自解釈で黙読するような「個人読書」は行われにくく、聖職者など教養のある人が文字を読めない人に代わって読み聞かせる「集団読書」がよく行われることになる。この「集団読書」は宗教改革派の思想宣伝の機会となった。というのも、読み聞かせを行う人は「集団読書」の際に自身の解釈や抑揚を加えることができたからである。リテラシーの開きは、知識人による公の場でのアジテーションを可能にしたのだ。

 とはいえ、教養の無い一般民衆への思想宣伝に最も役立つのは視覚メディアであろう。宗教改革派は、キリスト教徒なら誰もが知っている記号を用いることで、図像宣伝に役立てた。宗教改革派は絵入りの冊子を頻繁に配布した。特にカトリックの親玉であるローマ教皇は批判の的となる。そこで用いられた記号として「三重の王冠」が挙げられるが、これは教皇の被る王冠として一般信徒にもよく知られていた。そのため、「三重の王冠」を被って描かれている人物はローマ教皇だと一目で分かるのだ。また、悪辣そうなライオンの姿をした教皇が描かれることもあったが、これは贖宥状販売を促進してルターの顰蹙を買った教皇レオ10世のことを表していた。「レオ」とは、ラテン語で「ライオン」に当たる単語である。また、愚者の象徴であったロバは「反キリスト」を表し、悪弊の元凶とされた教皇や悪徳聖職者をこき下ろす記号として使われた。

 一方、ルターに対してはあからさまな称揚が目立つ。彼は修道士服と剃髪という姿で描かれることがあったが、この姿はまさに修道士の身なりであり、キリスト教世界における尊敬の対象であった。もっとも、ルター自身は修道制に否定的だったのだが。博士の帽子と法服という姿で描かれたルターは、真理が宗教改革派にあることを示し、彼の絵によく描かれた鳩は、三位一体における聖霊を表すことから、ルターの正統性を強調する効果を持った。こうした描き方には、極端なまでの教皇の戯画化とルターの英雄化という傾向が見られる。「ドイツのヘラクレス」という木版画には、ギリシア神話の英雄ヘラクレスよろしく屈強そうなルターが教皇や聖職者を成敗している様子が描かれている。いささかルター贔屓が過ぎている感はある。

 思想宣伝において表出したリテラシーの開きという問題は、当時のヨーロッパが文化的にエリート層の「大伝統(メインカルチャー)」と一般民衆の「小伝統(サブカルチャー)」とに分断されていたということと相関関係にある。エリート層においては学術言語のラテン語が共通語でもちろん識字率も高く、それに対して民衆は知識と権威のある人から口述で知識を得るべきだという伝統があった。確かに、土着化した農村部の下級聖職者はラテン語が読めず学識にも欠けたという例はあるものの、文字を巡る階層分化はかなり明白だった。

 宗教改革派がこうした階層分化を踏まえて巧みにメディア戦略を展開したのに対し、カトリック教会は活字宣伝文書の活用に消極的だった。カトリック教会では「印刷された本は美しくない」「印字には心が籠っていない」というような意見が上層部を占めていたのである。カトリック教会が思想宣伝のために提供した少数の出版物も、エリート階層に向けた難解な内容で、芸術的装丁の施された高価なものであり、とても一般民衆の手に届くものではなかった。それに対して宗教改革派はみすぼらしい粗悪な紙と誤植の多い粗末な印刷が特徴であり、また「集団読書」を前提とした口語調に加え、民衆に親しみやすい俗語やセンセーショナル案な罵言も多分に採り入れられていた。

  カトリックは「大伝統」の担い手だったことから伝統的思考を打ち破れないでいたのに対し、宗教改革派が柔軟な姿勢を示せた背景には、両者の指導層が世代的に異なっていたということがある。原則的に階層制の無い宗教改革派は20~30代が指導層であり、例えば1520年の時点でルターは30代後半、その助手メランヒトンは何と20代前半であった。彼らは「新しいメディアに馴染める世代」であったから、文字印刷の導入に柔軟な姿勢を示せたのだ。他方、教皇を頂点とする階層制が自明の理であったカトリック教会は上位聖職者が年配者で占められており、指導層は「新しいメディアに馴染めない世代」として活字宣伝を積極的に行わなかった。もちろんカトリック側にも活字宣伝の有用性を唱える意見はあったが、そうした主張をしたのは30~40代の比較的若く位も低い聖職者たちであった。

3.民衆の素朴さと聖像破壊

 民衆は神学理論を理解してカトリックを信奉したり宗教改革派に転じたりしたのかというと、答えは否であると言わざるを得ない。それを示す一つの例が、悪名高い贖宥状(免罪符)の販売である。キリスト教では、現世で罪を犯した人は天国へ行く前に煉獄という場所で苦しみを味わわなければならないということが一般に信じられていた。贖宥はそもそも現世で罪を犯した人間がそれを生前に取り消して貰うというものだったが、これは現世を去り煉獄で苦しんでいる故人にも有効とされた。「親孝行をしようとした時にはもうその親がこの世にいない」ということはよくあることだが、脛に傷がある親を持つ人々にとって、贖宥状の購入はまさに「親孝行」となった。これが贖宥状の販売実績を伸ばしたとされるが、こうした贖宥状販売が自領地に及ぶのを面白く思わない領主がいた。それが、「賢公」と呼ばれたザクセン選帝侯フリードリヒである。彼は多数の聖遺物を所有し、それらを領民に拝観させて耳目を集めていた。

   聖遺物とは、イエス・キリストや聖母マリアおよび諸聖人の遺物や遺体の一部のことで、これに拝むことで神から恩寵を受けることができると信じられていた。したがって、この効能は贖宥状と競合するものであり、贖宥状販売はフリードリヒにとって、自分のお株を取られるようなものだったのだ。こうして、フリードリヒはローマ教皇の意を受けて贖宥状販売を進めようとする神聖ローマ皇帝に反旗を翻し、ルターをザクセンのヴァルトブルク城に匿ったのである。因みに、聖遺物に含まれた「キリストの遺骨」は千人分もあり、こうした事実から、聖遺物拝観というイベントがインチキであったと言うこともできる。そう考えれば、「賢公」も教皇も五十歩百歩であったのかもしれない。ともかくここでは、民衆は神学理論を詳細には理解せず、素朴な信仰心で贖宥を求めていたことが分かる。

 こうした素朴な民衆は、宗教改革に際してどのようにその支持を表明したのだろうか。参政権も無く文章も書く能力の無い宗教改革派の民衆は、「宗教改革の支持者は何をすべきか」ということを重んじることで、自らの宗教的立場を発現させた。その分かりやすい例が、聖画像破壊運動である。宗教改革派のアジテーターは民衆に分かりやすいよう神学説明を単純化したが、それが極端な二項対立を意識させ、目に分かる「行動」の実践や支持が信仰の証明ということになった。

 当時、カトリックによるマリア像の崇拝が行われていたところ、偶像崇拝に否定的な宗教改革派がこれを非難し、スイスのチューリヒなどで多くの民衆が破壊運動へ熱狂的に参加する事態となった。これにはカトリックの奢侈に対する反感や、破壊に乗じて盗んだ奢侈品を転売することで金儲けをしようとする動機もあったものと考えられるが、注目すべきは、聖像崇拝に参与した民衆と聖像破壊に参加した民衆が、ほぼ一致していたということである。つまり、改革前はマリア様にひれ伏していたその人が、改革後に一転してマリア像を破壊する側に鞍替えしてしまうことが大いに有り得たということだ。このことは、彼らの動機が精緻な神学理解に基づくものではなく、身近な日常や個人の感情に即した素朴なものであったことの証左である。

   この時、宗教改革派が優勢を占める地域の教会芸術職人は失職を余儀なくされるが、一方で彼らは宗教改革派に同情的な面もあった。ここは単純な既得権益の議論では説明できない。こうした人々は今まで培った技術を活かして宗教改革派の思想宣伝を担う木版画職人に転向したともいわれる。

4. 結婚と異宗派併存

 さて、ここからは宗教改革がもたらした種々の改革の話に移る。第一に挙げられるのが、聖職者の還俗、すなわち独身でなければならなかった聖職者が婚姻を結んで世俗の人間に戻るということである。修道院での厳しい修行と戒律に反感を抱いていたルターは、修道制を否定し、禁欲の独身制を否定し、結婚による還俗を奨めた。これには、カトリック的な階層制を否定すべきという表向きの考えと、聖職者たちが自分の性的欲求を我慢できなくなったという本音があった。還俗した聖職者の結婚式は宗教改革派のプロパガンダ儀式となった一方、カトリックは結婚相手となる女性の卑俗さを強調してそれを批判することが頻繁であった。

 ところで、当時は男性人口に対して女性人口が多かった。これは、不摂生や喧嘩や戦争のために男性が女性よりも多く死亡したことによる。この不均衡を正すため、貴族や裕福な家庭は一定数の娘を修道院に送り込むということをしばしば行った。ルターの妻もそのような貴族の娘である。修道女は意に反して牢獄に放り込まれた身分であり、結婚への欲求は潜在的に大きかった。このことは、宗教改革派の支持基盤を築く一助となったのである。ただし、男性の場合、修道士というのは出世コースを意味した。しかしそうした男性もやはり妻帯を望むことが多く、ファムーラと呼ばれる役割の女性と同居することも少なくなかった。ファムーラとは、形式的には身の周りのお手伝いをしてくれる家政婦のような女性のことだが、実質的には妻の役割を果たした。こうした願望はカトリック教会のモラルに反した姿勢で、しかも神に認められる公式な結婚への欲求があったところ、ルターの個人的な内面問題は、当時の聖職者が抱えた心の悩みに解答を与えたということになるのだ。

 宗教改革に伴い、神聖ローマ帝国各地の領邦や自由都市はその改革を導入するか否かを決断することになるわけだが、「聖なる共同体」たる都市共同体が宗教改革導入を決めた場合、様々な問題が生じた。宗教改革は、ドイツ農民戦争(1524-25)に代表される農民反乱の失敗によって転換期を迎え、「下からの改革」は「上からの宗教改革」へとベクトルを変換されることになる。その帰結が有名なアウグスブルクの宗教和議(1555)であり、ここでは領邦君主が領民の宗派を決めなければならないと定められた。つまり、領民たちは自分の意思で宗旨を決めることができなくなったのである。この場合、どちら一方が圧倒的に優勢な土地であれば単一宗派でやっていけるかもしれないが、カトリックと宗教改革派がひしめく自由都市では、両宗派が公認されることになる。以下で取り上げるアウグスブルクやドナウヴェルトなどの南独都市はまさに両宗派併存都市だった。しかし、「聖なる空間」たる都市城壁内は信仰について統一的でなければならないという理解が当時にはあり、これはその理解と矛盾するものだった。というのも、宗教は生活と不可分に結び付いた共同体の維持に関わる問題であり、政治と宗教の一体性は社会的な前提であったからだ。そうなると、当然ながら両宗派併存都市は宗派対立に悩まされることになる。

 ここではアウグスブルクにある聖ウルリヒ教会の共同利用に関する例が挙げられる。ここでは両派が壁一つを隔てて教会堂を利用してたいたものの、宗教改革派の側には説教壇と鐘が欠如していた。利害を調整するべく動いた市政府の指令を受けて、教会の所有権を持っていたカトリック側は説教壇の提供に同意するも、その際に加えて要求された合鍵の引き渡しには否定的だった。結局、カトリック側は渋々ながら市政府の命令に従ったが、ここではカトリック側は宗教改革派を「異端の輩」、宗教改革派側はカトリックを「瀆心の徒」と見ていた。またある時、スペイン王フェリペがアウグスブルクを訪れた際、警備のために随行していたカトリックのスペイン軍兵士が宗教改革派の礼拝堂を見て狼藉を働くという事件があった。市政府はのちに修復へ協力するが、その際にカトリック側の妨害があったという。礼拝堂については、カトリック側が改築をしようとした際にも宗教改革派の抗議があり、常に「教会がどちらの所有物か」という問題が潜在していた。同じ空間を共有するという点では、カトリックによる中庭救貧活動も問題となった。教会の中庭は両派の共有スペースだったのだが、カトリック信徒が中庭に貧民や浮浪者を集めて救貧を施すのを、宗教改革派は「神の意志にそぐわぬ身の立て方」と非難した。

 空間の共有という問題は、ヴェストファーレン条約(1648)で一応の決着を見ることになり、宗教改革派は所有権を共有した。その決着の背景には、「宗教的寛容」理念が一般信徒には届かぬものであった中、世俗の市政府による迅速で公平な調停がなされたということがある。宗派対立の妥協的結果として異宗派が併存し、その間に「意図せぬ副産物」として現実主義的世界観が醸成されていたというわけである。

 空間の奪い合いという面では対立が頻繁に起こったようだが、一方で異宗派間の結婚は意外にもかなり一般的だった。三十年戦争という宗派対立の激化した非常時を除いては、結婚と宗旨は区別されていたものと考えられる。二宗派共存体制は異宗派間の結婚を促進し、結婚の公認は情勢次第だったが非公式に男女関係を結ぶ事例も少なくなかった。ただし、当時の恋愛観や結婚観を語るには史料的制約があるため、ここは難しいテーマだろう。

5. 改暦と「行列」を巡る紛争

 両宗派が併存するアウグスブルクでは、暦を巡っても論争が起こった。これは、カトリックの「意図しなかった」反撃と位置付けられる。ローマ教皇グレゴリウス13世は、科学的合理性を重視してユリウス暦からグレゴリウス暦への改定を行った。市政府が新暦を導入しようとするのに対し、宗教改革派はアウグスブルク宗教和議が禁じた宗教への世俗の介入として反対するも、市政府は宗教改革派の祝日だけ旧暦に基づくこととして調整した。

 すると問題になったのが四旬節である。四旬節とはキリスト教世界で肉食が禁じられる時期であり、今や観光資源としても有名な謝肉祭(カーニヴァル)はその直前のお祭りである。ここで頭の体操をしなければならないが、宗教改革派が新暦と時間的にズレのある旧暦を採用したとなると、同市では四旬節が一年に二度もやって来ることになる。そして、当時のアウグスブルクで精肉業を営んでいたのは大多数が宗教改革派であった。宗教改革派の精肉業者はカトリックなら肉食を許されているはずの旧暦の四旬節に販売を拒否したため、カトリックは宗教改革派の四旬節にもお付き合いして肉食を絶たねばならぬことになり、これはカトリック住民の不満を起こした。だがこれは裏を返せば、いくら宗旨が違えども宗教改革派の業者がいなければカトリックも肉食ができずに困るという、一種の「腐れ縁」がそこに成立していたということである。

 こうしたこともありつつ、市政府は改暦を布告する際、これは宗教改革派がカトリックに屈服をしたわけではないことをも平和維持のためにはっきりと通告した。市当局と聖職者との間に生まれた、旧来の思考を乗り越えるメンタリティが、何とか両者の衝突を抑えていたのである。

 アウグスブルクは両宗派の共存が維持された好例だが、やはり上手くいかなかった例もある。それがドナウ河畔の帝国自由都市ドナウヴェルトである。そこではカトリックが宗教上の行進式として聖遺物や旗を掲げて行う「行列」が問題となった。これは、カトリックの「意識した」反撃と位置付けられる。当時、ドナウヴェルトは宗教改革派が多数を占め、宗教改革を導入していたが、少数派のカトリックにも配慮せなばならない状況にあった。市政府は当初「行列」に譲歩しその遂行を認めるが、「不治の病が治る」という奇蹟を信じた一般民衆が熱狂して「行列」へ参加し市内を練り歩く様子を見て、宗教改革派は「行列」を妨害する行動を取った。市政府は皇帝から宗教和議の内容を履行するよう厳命されるが、市政府は対応を怠り、過激化する宗教改革派を鎮めることはしなかった。1606年4月25日、大祈願祭を祝うカトリックの「行列」中に「ドナウヴェルトの旗争い」という殴り合い蹴り合いの騒擾が起こってしまい、両派の不満は爆発した。両派の騒擾は明らかな宗教和議違反とされ、同市は帝国追放という重罰を受けた。つまり、自治権を剥奪されたのである。これに乗じて隣国のバイエルン大公はドナウヴェルトを武力占領し、彼は同市をカトリック化して自領に併合してしまった。市民の抑えきれなかった宗派対立感情、都市政府の古い意識と安易な対応が、帝国自由都市を崩壊させたのである。

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 以上がこの本の概要であるが、最初に挙げた注目点に即してまとめを述べ、結びとする。

 第一に、一般民衆は宗教改革を巡る神学論争をどこまで理解していたのか。一般民衆は、神学論争はほとんど理解せず、悪徳聖職者たちへの素朴な不満が改革を支持させた。カトリック教会の奢侈や卑劣な金稼ぎが彼らの反感を呼び起こし、それが宗教改革派の支持へと繋がったわけである。聖画像破壊運動といった過激な行動は、彼らの信仰態度の素朴さを表している。

 第二に、宗教改革派はメディアを介して民衆にどう宣伝活動を行い、どこまで効力を持ったのか。宗教改革派はキリスト教徒に通じる「記号」を用いた図像宣伝を積極的に展開し、単純な図式化で各地の多数派を確立した。指導層の若さを考えれば、これは新メディアを用いた「若者の反逆」とも言えるのではないか。また、それに対抗したのもカトリック若年世代だった。ここでは十分に語り得なかったが、カトリックも防戦一方だったわけではない。のちの対抗宗教改革運動でイエズス会が演劇による思想宣伝を行ったことは、彼らが何もメディア戦略に全く長けていなかったわけではないということを示す証左であろう。しかし、そうした新メディアの「分かりやすさ」志向は、少数エリートによる煽動と一般民衆の熱狂をもたらしたのだ。

 第三に、空間を共有する異宗派間でどのようなコンフリクトが生じ、それを世俗権力はどう調整したのか。主に教会共用と祝祭紛争においてそのコンフリクトは先鋭化したが、世俗権力はアウグスブルク条約の強制もあって原則的に調整的役割を担った。ここで著者は異宗派間で頻繁に妥協的な交渉が行われてきたという「環境」が生んだ新思考の現実主義、世俗当局と聖職者たちとの間での高度な政治的駆け引き、そして住民の自制が大きな役割を果たしたと何度も主張している。しかしながら私としては、その前提としてアウグスブルクの宗教和議という上位権力による「寛容」を強制する力学が働いていたことも、最後に指摘しておきたい。

 次回の文献紹介は、小山哲(2013)『ワルシャワ連盟協約(1573年)』(東洋書店)です。

2017年10月11日水曜日

文献紹介:エッカルト・ビルンシュティール / アンドレアス・ラインケ「ベルリンにおけるユグノー」(ドイツ語)

 初めての文献紹介で扱う文献は、Birnstiel, Eckart und Andreas Reinke1990“Hugenotten in Berlin”Von Zuwanderern zu EinheimischenHugenotten, Juden, Böhmen, Polen in Berlin, Berlin : Nikolaische Verlagsbuchhandlung(邦題:エッカルト・ビルンシュティール / アンドレアス・ラインケ(1990)「ベルリンにおけるユグノー」『移民から住民へ―ベルリンにおけるユグノー、ユダヤ人、ベーメン人、ポーランド人』ニコライ出版書店)である。ここでは19世紀にドイツ統一を主導することになる近世の軍事大国プロイセンが舞台となっており、ユグノーというのはフランス系のカルヴァン派信徒、つまり近世フランスで少数派を占め、17世紀後半に国外へ亡命していくことになったプロテスタント信徒のことである。

 当書の位置付けや論点について、大きく次のことが言える。一つに、ベルリンの壁崩壊前の1980年代に西独で執筆されたベルリン移民史の本格的概説書であるということ。事実究明が主で、近世から近代にかけて「移民」が「住民」へ「同化」する過程を描いているということ。近世においては君主の保護下で移民・難民が共同体を形成し、近代の国民国家的改革によって共同体が解体される過程が示されているということ。その中で、ユグノーは「同化」の「成功例」として当書の第1部を構成している。

 私としては、この文献についてまとめるにあたり次の注目点を挙げておいた。第一に、ユグノーはホスト社会へどのようにして統合されたのか。第二に、難民と現地民との間にどのような問題が生じ、それはどう調整されたのか。第三に、ユグノーはベルリンとプロイセンの経済や文化の発展にどう貢献したのか。第四に、ユグノーが宮廷教師としてホーエンツォレルン君主に及ぼした思想的影響はどの程度のものだったのか。こうした点に着目しつつ、今回は話を進めていきたい。

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1.ユグノー受け入れとそれに伴う諸問題

 16世紀、ヨーロッパでは宗教改革の動きが強まった。ドイツのルターのそれが有名だが、フランスでもスイスのカルヴァンに影響を受けたユグノーたちの改革運動が生じた。フランスでの状況については、 ムールによる研究が詳しく、日本語にも翻訳されているのでそちらを参照されたい(ムール(1990)『危機のユグノー―17世紀フランスのプロテスタント』教文館)。この間、フランス改革派信徒による教会会議体制が確立し、彼らの自治的機能は亡命先でも生きることになる。宗教的のみならず行政的にも自立傾向を示した彼らは、カトリック王権との対立を引き起こすことになる。王権による迫害も強まり、ヴァシーの血浴(1562)やサン・バルテルミの虐殺(1572)などはその有名な例である。カトリック信徒とユグノーは内戦を経て、ようやくナント王令(1598)により地位を確保され、ユグノーへの寛容政策が行われるも、カトリック側がユグノーに不利なようにナント王令の内容を解釈するようになったため、王令は実質的に無効化してしまう。17世紀には改宗工作や強制改宗による信仰統一化が目指され、それと並行してユグノーの国外亡命が大規模ではなくとも増加していった。「絶対主義」の代表的君主として有名なルイ14世(在位1642-1715)がフォンテーヌブロー王令(1685)で国内の人々にカトリックへの改宗を義務付けると、ユグノーは「大脱出」を行った。フランス国内に居た90万人のうち20万人が国外へ違法な亡命をして、そのうち2万人がブランデンブルク=プロイセンへ向かったのである。
 
  では、主要な受け入れ先の一つとなった後進国ブランデンブルク=プロイセンは、当時どのような状況にあったのか。17世紀後半は、戦災復興と中央集権化の時代であった。三十年戦争(1618-1648)による戦場化、大規模な人口移動と人口減少は、ブランデンブルク=プロイセン全体で5割、首都ベルリンでは4割の人口喪失をもたらしていた。そこで、人口を補填するためにも、都市開発のための技術や知識を導入するという意味でも、宗教的少数派の受け入れが行われたのだが、ユグノーもその一例だった。常備軍形成のための税金を巡る中央の君主と領邦議会に議席を持つ地主貴族(等族)との政治闘争、そして君主やその僅かな側近のみがカルヴァン派を奉じ、等族や大多数の臣民がルター派を奉じていたという複雑な状況は、概して「君主vs等族」≒「中央vs地方」≒「カルヴァン派vsルター派」という二項対立を生じさせていた。この対立状況と関連して、君主は自分たちに近しいカルヴァン派官吏を介した中央集権化を図り、その中でカルヴァン派であるユグノーの積極的登用が行われていく。ここで濫発された受け入れ宣言や特権付与は、領邦君主である選帝侯のイニシアティヴで全て行われ、ブランデンブルク選帝侯・プロイセン王の保護下で信仰難民の特権や地位は持続したのである。

 ポツダム勅令が1685年に発布されたことは、ユグノー大規模受け入れの嚆矢となる。同令はユグノーを「同胞」として支援し、彼らとの友好に反する行為を厳禁するというものだった。居住・営業・兵役免除・ツンフト加入などに関する諸特権もユグノーに付与され、貴族出身者にはその地位に相応しい称号や官職、年金を付与することが決められた。勅令の内容が口頭で伝わったこともあり、多くのユグノーがブランデンブルク=プロイセンを目指したといわれる。

 受け入れに伴っては、様々な問題が生じた。ごく簡単にまとめれば、勅令の適用範囲に関する問題(17世紀初頭までの法整備で拡大)、「臣民」としてのユグノーに関する問題(ポツダム勅令では曖昧も、のちに臣民へ統合)、施設利用に関わる問題(ドイツ系信徒と時間割を巡り衝突、君主が介入するも未解決)、貧困に関わる問題(カルヴァン派信徒の献金や宮廷からの援助でカバー)、教育機会に関する問題(フランス人学校設立、フランス人教会の監督と援助に頼る)、教区巡察に関する問題(君主は巡察の遂行を優先、ユグノーの嘆願を退ける)、出自に関する問題(出身地が不明だったところ、17世紀末より証明書類の提出を義務化)といった問題が生じたが、ここには法整備や献金活動によってある程度解決したものと、現地民との衝突を惹起したために根が深くなかなか根本的解決に至らなかったものがあった。

 ユグノーたちはフランス人改革派共同体を受け入れ先で成立させ、その自律性も高かった。以前よりベルリンへ亡命していたフランス人は小規模な居住地を形成していたが、こうした共同体が受け入れ先の基礎を作った。居住地内ではフランス語による礼拝や教会規律の遵守が徹底的になされた(ただし君主は上級宗務局を介して巡察官を派遣し、居住区民の私生活まで宗教倫理的に監督した)。選帝侯・国王はフランス改革派教会唯一の首長としてユグノーを保護・監督することになる。共同体内のフランス人同士の係争事項はフランスの司法でフランス人仲裁判事が処理し、「コミッサリア・フランセ」という役職が中央政府でも設けられ、世俗的な行政の面で君主は間接的に責任を持った。

 しかし、こうした自治的な行政の在り方は、プロイセン国家改革による行政の再編によって変革をなされる。19世紀初頭、ナポレオン戦争で近代化の必要を感じたプロイセンは、シュタイン・ハルデンベルク改革に伴う行政再編で、特権を付与された近世的社団である「国家内国家」を解体した。独自の裁判制度や世俗行政は廃止されたのである。ここで、特権的「臣民」として生きるか、ドイツ人と「同化」するかという論争がユグノー共同体内で起こるが、いずれにせよ保護者であるプロイセン王への忠誠は変わらなかったのだ。

2. ベルリンのドイツ人とフランス人

 ユグノーは1699年までに13,847人がプロイセン領へ到来し、そのうち8,622人がベルリンへ定住したとされる。受け入れ開始から1701年までユグノーは増加傾向にあり、最大時には都市人口の四分の一になった。ベルリン全体の人口増加は続くが、1701年以降ユグノーは相対的に減少傾向にあった。18世紀末までにはユグノーの絶対数も減少し、都市人口の5%を下回った。

 現地民との融和の具合を見る上で分かりやすい指標になるのは、ユグノーと現地民との通婚率であろう。ユグノーはベルリンの都市部に集住したことから現地民との接触が多く、都市部から外れた地域にユグノーが集住していたヘッセンとは対照的だった。16761812年にベルリン在住のユグノーの婚姻率は拡大し、特に第三世代よりドイツ語の普及とともに混血婚が増加した。混血婚に際して名士連が仲介者となったヘッセンと対照的に、ベルリンでは階層間の相違が無かったとされる。ユグノーと結婚したドイツ人はユグノー共同体に加入し、特権に与ることができたため、このことが混血婚を推進する要因になったのではないかということも指摘されている。

 ベルリン市街区におけるユグノーの生活・居住拠点としては、17世紀に新設された新街区が中心となった。新街区に多くのユグノーが定住し、三十年戦争で空き家となった家々もユグノーに分配された。奢侈品の需要が高い宮廷の付近にはユグノー系手工業者による工房が存在していたことも、居住地域の傾向だった。例えば、ベルリン在住ユグノーの三分の一はドロテーンシュタット地区に居住し、同地が自治権を得るとユグノー出身のランボネやフールノルが区長に就任した。フリードリヒシュタット地区にもユグノーが多く定住し、経済活動の中心となった。同区には1705年に最初のユグノー独自教会であるフランス大聖堂が設立されている。比較的ユグノーの少ないフリードリヒスヴェルダー地区には官吏や学者が居住し、同区はフランス人宗務局やフランス人裁判所の存在でユグノーの行政的中心となった。

 ドイツ人とフランス人との共生における問題は数多くあったが、目ぼしいのは貧民救済に関する問題だった。当初、貧しいユグノーのために募金活動がなされるも、異郷からの新奇な人々に対する市民の態度は冷淡であり、中央政府の意向による強制献金もなされるほどだった。また、食料品がユグノーの支援に充てられて物価が高騰し、このことは現地民の不満を惹起した。教会施設の利用に関する衝突もあり、ルター派牧師がユグノーとの教会の共同利用を拒んだ例も報告されている。しかし、当書ではこれらはあくまで「初期障害」とされ、18世紀を通してユグノーに対する不信は消えていったと結ばれている。
 
3. ベルリン経済におけるユグノー

 ユグノー受け入れの都市となった1685年のベルリン経済の構造は、農業が優位を占め、市民層が育っておらず、商業活動は宮廷からの支援が不可欠だった。また、三十年戦争で多くの商工業者が消滅し、国内市場の貧弱さも際立っていた。

 こうした状況にあって、ユグノーは職業身分的に現地の社会へ統合され、経済発展の動力となる。ベルリンの手工業は当時ツンフトという同業組合により担われていたが、ユグノーは特権を享受しツンフト加入を認められる。しかし、現地の手工業者は特権的なユグノーの参入に反対して選帝侯に苦情を訴え、ユグノーには過大な加入条件が課されることにもなった。ユグノーの中には免税期間に独自のイヌング(ツンフトとは別形態の同業組合)を設立し、主に靴下・手袋・皮革を製造して、現地民とは別の商業領域に属するようになった者も少なくなかったが、競争的なイヌングは政府から統制的な経済政策の障害とされ、現地民との共同経営が推奨された。共同経営が普及する中、女性・児童労働などに関して慣習を巡る衝突があった一方、フランス人によるドイツ人への技術伝播が進んだ。移民に対するルサンチマンにもかかわらず、職業身分の上でもユグノーの統合が進んだのだ。ユグノーの技術的優位はその技術伝播によって消滅し、ルサンチマンも影を潜める。

 経済的な革新活動も、ユグノーたちによってなされた。新奇な製品や産業部門、新しい組織形態の導入は、16761756年にかけてユグノーの三分の一が産業部門に従事していたことから、プロイセンの産業に実りをもたらした。同じ頃、産業部門に従事したユグノーの三分の二は繊維・衣類産業に従事していたといわれる。様々な失敗を繰り返しながらもユグノーの経営者が多くのマニュファクチュアを経営していたのである。

 ユグノー企業家への特権付与と助成も、以上のような活動を促進した。期限付きの免税特権などに加え、起業のための前貸し金や助成金がユグノー企業家を助けた。また、関税や間接国税、輸入規制による国内産業保護政策も、外国製品との競争を回避することに功を奏した。ユグノーの繊維・衣類業者は、宮廷や軍隊が大口顧客となることで安定した収入を確保する。このことは、ユグノーの活動が王侯貴族の奢侈や国家的な軍需と密接に結び付いていたことの証左でもある。ただし、国家による支援は国家による監督と表裏一体だった。統合的な国家の経済政策への組み入れは、難民であったユグノーを「一般市民」にしたのだという。

4. ベルリンの文化生活におけるユグノー

 ユグノーのアイデンティティを考える上で分かりやすい指標は、彼らの母語であったフランス語の使用である。ユグノーは高地フランス語を話し、方言の多いカトリックとは対照的に言語的統一性を形成していた。洗練されたフランス語に熟達したことは、ユグノーたちの威信を高めた。また、ユグノーのベルリンへの流入により、フランス語由来の単語や慣用句が生まれた。一方でユグノー・フランス語にはドイツ語に由来する語彙も入り込んだ。18世紀にドイツ化が進み、フランス語は礼拝用言語としてのみ使われるようになっても、ユグノーのフランス語文化への執着は強く、フランス人学校でのフランス語授業は残存する。だが、19世紀に入ると姓名のドイツ化も始まり、ユグノー・フランス語は日常から消滅した。

 ユグノーは言語文化のみならず、政治思想などの面でも影響を及ぼした。ホーエンツォレルン宮廷で王子の教育者として雇われたユグノーたちがそれである。16941814年までホーエンツォレルン君主はユグノーの宮廷教師を迎えていた。マルト・ド・ロクール(フリードリヒ・ヴィルヘルム1世とフリードリヒ2世の養母)やジャック・エジド・デュアン・ド・ジャンダン(フリードリヒ2世の教師)が有名な事例である。養母はフランス式の躾を、教師は政治教育や古典教育を施した。特にデュアンは「大王」と呼ばれるフリードリヒ2世へ啓蒙思想を伝え、ヴォルテールの著作に親しませた。フリードリヒ2世よりのちはカルヴァン派の宗教教育が廃止され、国内他宗派への「寛容」な態度を教育するようになった。

 最後のユグノー教師は、ジャン・ピエール・フレデリク・アンシヨンである。彼はのちに1848年革命に直面することになるフリードリヒ・ヴィルヘルム4世を教育し、文学に熟達していたことから、個人的な友人であったユグノー作家フリードリヒ・フーケー(元プロイセン軍将校で、ライン川のローレライ伝説をモデルとした小説『ウンディーネ』の作者)も紹介している。ただしアンシヨンは良くも悪くも前時代的な人物だとの評価が強かった。つまり、彼は「啓蒙思想の落とし子」であって「革命家」ではなく、「世界市民」であって「ナショナリスト」ではなかったのである。また当時、王子の教師を務めた人間は他にもおり、その中には後世に名を残すことになる戦争学者シャルンホルストや法学者サヴィニーらが含まれ、彼らに引けを取っていた。とはいえ5代にわたる君主たちがユグノー教師からフランスの母語とフランスの交際形式を学んだことは事実である。彼らが当時のフランスの政治・哲学・文学に精通できたのはユグノー教師のお陰であり、こうしてプロイセン宮廷は18世紀ヨーロッパのあらゆる宮廷の中で「最もフランス的」となった。フランス文化は、プロイセン国家における一流の文化として浸透したのである。

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 以上が概要であるが、最初に挙げた注目点に即して、ここでまとめを記しておきたい。

 第一に、ユグノーはホスト社会へどのようにして統合されたのか。彼らはやがて国王への臣従礼を義務付けられ、書類上は「プロイセン臣民」になる。市民間では、都市部ゆえの接触の多さから各階層で混血婚が拡大し、ドイツ語の普及と姓名のドイツ化が生じていく。経済的にも、国家主導の経済政策により職業身分的にユグノーを現地の社会へ統合することが行われ、これは高い程度で成功したものと考えられる。ただし、不信や嫉妬による「初期障害」が取り除かれた過程については、少なくとも当文献に限っては説明が十分でない。
 
 第二に、難民と現地民との間にどのような問題が生じ、それはどう調整されたのか。問題の性質を三つに大別すると、次のようになる。まず、法整備の不十分さから生じた問題は、18世紀初頭までの法整備により大部分は解決されていく。次いで、貧困や教育機会に関する問題は、国内外の信仰同胞や宮廷の支援、教会のイニシアティヴにより対処され、ある程度はカバーできた。そして、現地民との衝突については、概して信徒間の衝突が19世紀まで続く一方、市民間では良好な関係が次第に構築されていくということになる。ここで注目すべきは、宮廷を中心とする世俗権力がユグノーの保護と現地民との融和に尽力していたことである。社会がある種混沌とした状況において世俗権力がどういった役割を果たし得るかということについて、示唆的な歴史がここにある。

 第三に、ユグノーはベルリンとプロイセンの経済や文化の発展にどう貢献したのか。新奇な製品や生産方式を導入し、特に繊維・衣類産業においてドイツ人へ技術を伝えた。市民層へのフランス文化の流入やフランス人による王子の教育と思想伝播も、彼らの貢献度合いを示すものとして遜色ない。ここでは、こうした役割が、難民救済というよりもホーエンツォレルン君主による計画的なユグノーの「動員」という政策の中で期待されていたことを強調しておきたい。ただし、当文献ではプロイセン興隆に果たしたユグノーの役割を高く評価しているが、ユグノーの役割に対する評価は過大との声もある。プロイセンの発展ありきで神話的にユグノーの役割を強調する叙述は戒められねばならず、亡命ユグノーの問題を考えるにあたっては気を付けておきたい。


 第四に、ユグノーが宮廷教師としてホーエンツォレルン君主に及ぼした思想的影響はどの程度のものだったか。彼らは17世紀末から19世紀初頭までフランス流の教養を諸君主に授けた。特に啓蒙君主フリードリヒ2世に対するデュアンの影響は大きかったとされる。昨年に山川出版社から出た屋敷二郎(2016)『フリードリヒ大王』にもそのような記述がある。因みに、この文献もいずれ取り上げるつもりである。またフランス文化を好んだ同王の周囲にはユグノーが多かったことは、数々のフリードリヒ2世伝でも指摘されているところである。ただし、彼らの「教養」には時代的制約があり、近代化の過程でお役御免となった。19世紀は、啓蒙主義ではなくナショナリズムの時代だった。それでも、18世紀にはユグノー教師は君主から敬意を向けられ、宮廷で強いプレゼンスを築いていたのである。

 次回の文献紹介は永田諒一(2004)『宗教改革の真実』(講談社現代新書)です。


2017年10月10日火曜日

2017年10月10日(火)

久し振りに長文を書いた。

書く内容は分かっていても、いざ書くとなれば時間がかかる。

時間的な余裕はやはり重要なり。

2017年10月9日(月)

何事も程々が良いというのは一理ある。

2017年10月8日日曜日

2017年10月7日(土)

やはり時間には余裕を持つものである。

今日は、ゆったりとした時を過ごした。

そのお陰で疲労も回復したし、心地良い眠気が漂う。

人生を快適に過ごす秘訣は、時間と精神の余裕を確保することだろう。

2017年10月6日金曜日

2017年10月6日(金)

卒業論文もこれからが正念場か。

膨大な知識を頭の中に無理矢理詰め込み、それを自分の言葉で紡がねばならぬ。

夕方頃からは梅田へ向かい、某協会の定例会合に参加。

思わぬところで大先生に出会い、分からぬものだなぁという毎日だ。

2017年10月5日(木)

おくるおくる。

2017年10月5日木曜日

2017年10月4日(水)

ようやく糸口が掴めてきたような気がする。

いや、ただの気の所為に過ぎぬかもしれない。

とはいえ、漸く次の一歩を踏み出せた。

さすれば、前進あるのみ。

2017年10月3日火曜日

2017年10月3日(月)

労働終わりにパスタを茹でて炒めてワインと共に食す。

世界史クラスタも注目の『将国のアルタイル』を観ながら。

素晴らしい夜である。

卒業論文の中間報告に向けた準備もひと段落。

荒んでいた心に余裕も生まれた。

友人と食事を共にするくらいには。

しかし、使える一次史料を探すのには苦労する。ドイツはデジタルアーカイヴ化が進んでいる「優良国家」であるから、一次史料は他国よりも探し易いはずなのだが…

まあ、これからの頑張り次第だろう。

今のところは一休み、一休み…

2017年10月2日月曜日

2017年10月2日(月)

アルコールへのヘイトが最高潮である。

昨晩は調子に乗って日本酒を飲み過ぎてしまい、私が最も恐れていたはずの二日酔いに陥った。

フラフラの状態で朝からの講義に出席、何とか乗り切ると昼休みは仮眠して過ごした。

学期始まりの授業はガイダンス中心なので負担は少ないのが救いであった。

ドイツ史の先生からは「西洋史研究室で院生よりも偉そうにしてる学部生」とイビられ、ドイツ語の先生からは「君は一段と声が大きくなったな」と無駄な声のデカさを指摘されたが、良く言えば自分はそれだけ目立っているということか。

課題は山積みだが、これより新たなフェーズに入る。

2017年10月1日(日)

ようやく終わった。

長きにわたる翻訳作業が。

これで卒論の大きな土台は漸く固まったのである。

しかし、今になってその分量を見てみると既に10万字を超えていた。

必死になって先行く走者に追い縋ろうとしていたら、いつの間にか横には誰も居なくなっていたような気分だ。

これからが地獄だが。

2017年10月1日日曜日

2017年9月30日(土)

やはりその気になるものだ。

今日も順調に事が運んだのである。

もはや今までの悩みが何であったのだろうかと思ってしまうくらいだ。

だが、こう考えてはどうだろう。

今までがあまりにも不甲斐無さ過ぎたのだと。

その通りだ。

尻に火が付いて漸く歩み出す程度では、人として底が浅いのだ。

2017年9月30日土曜日

2017年9月30日(金)

尻に火が付けば物事も進む。

昨日は災難が身を襲い徹底的な療養を強いられたが、今日は午後から出動し、指導教官の先生と密議ののちに研究室へ籠った。

ここ数日で最高水準の進軍速度である。

その気になるだけでできることは意外と沢山あるものだ。

2017年9月28日木曜日

2017年9月28日(木)

風邪を惹いてしまったようだ。

作業が進まぬ。

休めたわけでもない…