最近は生活リズムが安定しているのだが、ここに来て眠気が溜まりやすくなってきた。
こうやって文字を打つ間にも、瞼が閉じられそうになる。
四日間の集中講義を終えた。
次は進路の確保のためにひと頑張りである。
最近は生活リズムが安定しているのだが、ここに来て眠気が溜まりやすくなってきた。
こうやって文字を打つ間にも、瞼が閉じられそうになる。
四日間の集中講義を終えた。
次は進路の確保のためにひと頑張りである。
楽しい楽しい夏休みも折り返し。
卒論作成に迫られるゆえ暇なわけではないのだが、やはり授業期間よりは精神的・時間的余裕に恵まれる。
今年の夏は様々な事情で国内旅行をしているのだが、国外へは一昨年ドイツへ行ったきりである。
ツイッターのTLを眺めていると、海外へ旅行する学生さんの多いこと多いこと。
もちろん、比較的近く物価も安いアジア旅行が多いのだが、ヨーロッパなどへ旅行される方々もおり、ちゃんとご自分で計画を立てられて旅行されているようだ。
私の海外渡航は、短期留学であった。
つまりは、大学のシステムに頼る形で旅行していたわけである。
私の場合、そうしたシステムに頼りがちなのだ。
海外へ行くのは良い機会だ。
確かに行く回数が多ければ良いというわけではないが、それでも沢山行っておきたいものである。
しかし、私には主体性がまだまだ足りんのだろう。
西洋史上、「大王」と呼ばれる君主は何人か存在する。
中でも世界史の教科書などで大々的に取り上げられるのが、マケドニアのアレクサンドロス大王とプロイセンのフリードリヒ大王である。
彼らに共通するのは、男性であること、戦争を指揮して領土を拡大したこと、多様な臣民に対して寛容さを示したことなどだ。
まず、アレクサンドロスもフリードリヒも男である。
ロシアの女帝エカチェリーナ2世は「大帝」と呼ばれることがあるものの、イングランドの女王エリザベス1世が「大王」と呼ばれることはまず無い。
また、彼らは優れた戦略家・戦術家であり、自らも戦場へ赴き、最前線で指揮を執った。
政治家たるのみならず、軍人としても活躍し、そのハイスペックさを見せたのだ。
そして、彼らは器も大きかった。
アレクサンドロスはコスモポリタニズムの流れの中、征服地のペルシア人とギリシア人との通婚を奨励するなど、被征服民との融和を図った。
フリードリヒは宗教的少数派の受け入れや宗教寛容令の公布などを行なった。
アレクサンドロスは世界征服を目指した大帝国の君主、フリードリヒは新興国を発展させた啓蒙君主という違いはあるものの、「大王」という言葉には、尊敬や賞賛を前提として共通したニュアンスが込められているはずだ。
したがって、これを歴史家が正式な論文などで用いる場合、注意を要することになろう。
「大王」という尊称は、その人物の業績を無批判にそのまま肯定してしまうこととなりかねない。
こういった言葉の慎重な選び方に関しては、しかしながら私も迷っているところである。
私にとって、差し当たりの課題だ。
早朝に御殿場から帰還。
夜行バスではぐっすり眠れたはずが、自宅へ戻ると、正午過ぎまで眠り込んでしまった。
午後は演劇鑑賞など、凡そ本来の勉学とは関係の無い行動をとった。
翌日からは集中講義。
気長に頑張ろう。
ちょっと体調が悪い。
だというのに、今日は大阪から御殿場へのバス移動である。
いや〜キツイっす。
ゲップと屁を我慢しながらの高速道路。
貧乏旅行だから仕方無い。
トイレは付属しているが、はっきり言って居心地の悪いもので、便座に不可欠な安心感は無い。
あまり使用したいとは思えないトイレだった。
しかし、魅力的ではあった。
脳内の便所図鑑に加えよう。
明日は富士総火演の予行を観に行く。
ネット喫茶で一休み。
本を読むのは大事だ。
こう言われていることを知っている人間は多いが、実際にそれを肌で感じている人間は少ない。
自分も、数年前までは前者だった。
高校2年の秋頃から物事が薄々分かり始め、大学3年になる頃には教養や知識というものがどれだけ自分にとって大切なのか、漸く実感することになった。
世の中、地頭が良く要領も良いが教養や徳は無いという人間は少なくない。
もちろん、機転が利くことは良いことなのだが、それだけであって中身の無い人間というのは掃いて捨てるほどいる。
小中高では基礎教養を学べるが、それ以上のことは学べないというのがほとんどである。
ならば、自分で勉強するしかない。
だから、本棚に学術本の並ぶような家庭は有利だ。
私は大学生になってやっとそれを知った。他人から聞いてはいたが、自分で知ってはいなかったのだ。
遅れを埋め合わせるべく、必死で書物を漁る毎日。
まあ、それも人生だろう。
原稿が一段落し、研究室では院試対策だけに専念するようになった。
精神的・時間的余裕も生まれ、今晩は天王寺で『銀魂』の実写版を観た。
実写版の内容については観てのお楽しみということで、ここでは触れないが、『銀魂』という作品は自分にとって馴染み深いものである。
アニメは2006年から放送していたのであるから、私の思春期は『銀魂』と共に在ったのだと言っても良い。
夕方18時から『銀魂』がテレビ東京系列で流れ、その30分は夕食を摂りながらテレビに向かったものだ。
パロディ・下ネタ・SFなど何でもあり、滅茶苦茶な内容の作品だが、それが面白く思えたのだ。
またアニメを観直したくなってきた。
中学・高校時代を思い出しながら。
今日は貝塚巡り。
観光地というわけではないが、故あっての来訪である。
素晴らしい海岸、大阪府郊外の原風景。
二色浜でパリピの方々を目にした時は思わず吐血しそうになったが、今日も充実していた。
最後は無憂宮で酒を酌み交わして〆た。
また明日。
今日は大津への日帰り旅行。
最初は「大津事件が起こった場所だから世界史要素あるんじゃね?近場だし」というガバガバな理由から始まった企画だったが、何やかんやで面白い史跡を巡ることができた。
そして、何と言っても大津の見所は街中を走る路面電車。
行って良かった。
とても充実した一日となった。
しかし夕方ともなると、体力は削られまくり、汗だくである。
歩きの多くなる学生旅行などそんなものだ。
夜は銭湯に浸かり、ラーメンで〆る。
明日は貝塚へ。
集中講義が終わった。
約30回にわたる、4単位分の講義だった。
さて、今日の夜はゆっくり休んで、明日からは原稿に取り掛かれるだろう。
因みに明後日は、某所への夏季旅行である。
世界史趣味者共との騒がしい旅だ。
とはいえ、まだまだやることは多い。
自分の集中力の無さが恨まれる。
パンクした自転車のタイヤの空気も入れ直し、自分にも気合いを入れ直し、もたつかずに歩みたいところだ。
AbemaTVで『とある魔術の禁書目録Ⅱ』が放送されていた。
私も時間があれば視聴している。
このアニメ、オンエア開始は7年前という懐かしい作品だ。
そう考えただけで自分も歳をとったものだと思われて仕方無いが、やっぱり親しんだ作品には安心感が持たれる。
私は一方通行(アクセラレータ)というキャラクターが大好きだ。
Ⅱ期の序盤、アクセラレータがこっそり逃げようとする敵を相手に久々ながら能力を発動させ、飛翔して相手の顔を全力で殴り飛ばすシーンは印象深い。
個人的には、シリーズでも屈指の名シーンだ。
この世の中、納得のいかないことをあのように殴り飛ばせたら…と愚考せずにはいられない。
しかし、そういったことは彼のような「力」のある人間にしかできない。
今のところ、私は「力」のある人間ではないから、そんな芸当はできない。
何か納得のいかないことがあって、それを殴り飛ばしたい時、あるいは何かやりたいことがあって、それを成し遂げたい時、「力」が必要なのだ。
自分が「力」を持つ人間になるのか、「力」を持つ人間に夢や望みを託す人間になるのかは、これから分かるだろう。
もう世間はお盆だってマジ?やめたくなりますよ〜人生ぃ…。
集中講義などで大学に通い詰めているせいか、今がお盆だという感覚は皆無である。
確か、今日は未亡人がクレーンにトランスフォームして近所のおばさんを惨殺する光景を道端から目撃する夢を見て目が覚めた。
フロイト先生だったら、私の夢にどのような深層心理を読み取るだろうか。
昨日の夜は、部屋が片付いていたこともあって、とても晴れやかな気分で眠ることができたのに。
勉強机に貼り付けられたフリードリヒ大王の御真影(インクジェット印刷)も、心なしか陰鬱な表情を見せている。
ほぼ孤立無援で七年も戦争続けるのはキツかったなぁ…(古参兵並みの感想)。
結局、一日は快速列車のように速く過ぎて行った。
また明日。
余裕がある時の方が、かえって作業が進みにくいというのが自分にはよくある。
今日はまさにそんな日だった。
とはいえここ一ヶ月間の予定を確認すれば、決して余裕のある日程ではないと分かるのだが、今日という日が特段に予定の無い日だと認識してしまえば最後、やる気がなかなか入らなくなる。
むしろ慌ただしい平日などは、ただでさえ時間が無いのだから一分一秒でも無駄にすまいと意気込むために、物事がスムーズに進むものだ。
尻に火を点けられなければ、やるべきことをやろうとしないのだ。
そうした精神的な問題もあるが、作業が滞ったのには己の語学力の無さも影響している。
ドイツ語の論文がスラスラとは読めない。
進みが悪いと分かれば、忽ちにやる気が失せてしまう。
大学で第二外国語として選択して以来、ドイツ語とはかれこれ三年以上の付き合いだが、ドイツ語はいつ自分のものになってくれるのだろうか。
未練は残るが、明日は朝から集中講義なので、もう今日は諦めて休もう。
今日は友人の協力を得て自分の部屋を掃除した。
その気になった人間が掃除を始めれば、何やかんやでスムーズに終わるものだ。
やる気さえあれば何でもできるというわけではないが、その気にならないためにできていないことは少なくない。
何かと批判に晒されがちな精神論だが、精神論も時には必要だ。
酒が飲みたい。
もともとは酒など飲めぬ口で、成年後にドイツへ留学した際に初めて口しにたビールも、苦いだけで美味しいとは思わなかった。
しかし、日本へ戻ってからはビール、ワイン、日本酒と手を出すことになり、今ではそれなりに酒を飲めるようになっている。
ただ、それが世間でよく言われる通り舌が鈍くなってしまったからなのかもれないと思うと、現実を突き付けられたようで哀しくなる。
大学生の夏休みというのは概して二ヶ月近くあるものだが、それも短く感じるようになった。
時は早く過ぎて行くというのに、毎日疲れるばかりで前進を感じられぬ。
これが正しい歳の取り方か。
今日は「野獣の日」と呼ばれる8月10日。
ネットリテラシーの低い哀れな大衆は、この日を自己顕示の好機とばかりに的外れなツイートに走る。
自己顕示云々は人間的なものであってむしろ微笑ましいくらいだが、便乗するなら便乗するで、出所の怪しい記念日はその由来くらいネットで調べておくべきではなかろうか。
記念日というのは、その由来が忘れられて受容されることがよくある。
例えば、本邦において世俗的なコスプレ祭の様相を呈しているハロウィンは、古代ケルト文化における大晦日が起源だったりする。
「元々の起源にまで立ち還るべきだ!」とまでは言わないが、そうした記念日の由来をこの機会に考えてみるのも一つの勉強だろう。
そうすることで、様々な文化や風俗の深みを知ることができる。
そう、「野獣の日」でもね。
寝不足が解消していないというのに一限目から四限連続で集中講義に出席せねばならないという「試練」がやって来た。
平日は来週金曜日までそのような日々が続く。
長い講義を終えて研究室の椅子に腰を掛けるも束の間、早期に研究計画書を仕上げねばならない。
しかし、後輩が隣に座るとノートPCに怪文書を作成し始めた。
確か『私怨の法』とかいう題だった。
大川隆法的な人物がヨハネを現世に召喚したり、信者にケツ拭き紙を免罪符として売りつけたり、唐突な近鉄disが始まったり、謎の巨大な力で三重県が消滅したりする内容だったが、大筋は覚えていない。
私はこの怪文書の執筆を監修したものの、あまりにも内容が汚かったために文書は消去された。
その後輩は研究室の共用PCにデータを転送しようとかいう悪魔の発案を持ち掛けたが、流石にそれは冗談として収められた。
結局、もうその文書を目にすることは無い。
歴史は記されたものだ。
記されない歴史は、最早存在せぬものである。
今も世界の何処かで、物事が記されずに「過去」が忘却されていく。
そういえば、書物が焼却され、「過去」が記録されない世界を描いたレイ・ブラッドベリの『華氏451度』というディストピア小説があるそうだが、時間に余裕ができたら一読したい。
最近の忙しさも一区切り。
ただ、これでゆったりとした夏休みが送れるかと思えば、そうはさせてくれぬのが今の世の中だ。
そもそも、卒論を書かねばならぬという時点で休みらしい休みが送れるわけなかろう。
幼い頃の夏休みといえば、専らポケモンと野球というイメージだった。
ポケモンの映画が毎年夏に公開され、地上波では前年の劇場版が放送される。
特別前売り券で幻のポケモンが配布され、いつ頃からか劇場のWi-Fiでポケモンが配信されるようになった。
NHKでは甲子園大会の試合が全て生中継されており、NHK総合とNHK教育を梯子したものだ。
夜にはプロ野球のナイター。
あの頃の中日は強かった。
8月は、その優勝争い真っ只中の時期であった。
これらの時は全て、遠く彼岸へと消えていった。
こうした回想は今となっては懐古でしかないが、現実逃避も偶には必要だろう。
望んでもいない台風が来た。
今日は外へ出られず、制約の多い一日だった。
研究関係の道具を殆ど大学に置いてきたため、できることは限られていた。
今の時点でできることはしておいたつもりである。
子供の頃は「暴風警報」という赤い文字列に心躍らせていたものだが、今となっては特に旨味を感じない。
それだけ大人になったということか。
最近は灼熱に身を投げ出すことに気が進まぬ日々が続いていたが、自宅に籠るのもそれはそれで億劫だ。
頭もあまり働かない。
ツイッターでもあまり喋らなくなった。
普段からもう少し気楽に振る舞っても良いのかもしれぬ。
嵐が過ぎ去ってしまうと、何だか物足りなさが感じられた。
面倒臭い面倒臭いと宣っておきながら、私は忙しさを欲しているのかもしれない。
この精神性だけを見るなら、社畜戦士にはピッタリの人材だ。
ただ、体にはガタが来ているようで、もはや生活リズムという概念が存在しない状態である。
土日に外へ出かけ、博物館や映画館、学会を巡っていた頃が遥か中世の時代に思える。
そういえば、私の専門は近世という時代である。
簡単に言えば、中世と近代の間にある中途半端な時代だ。
いわゆるアーリーモダンだ。
少なくとも日本では、ことドイツ史に関しては相対的に近世史研究が少ない。
周りに近現代史の人間は沢山居ても、近世史の人間は殆ど居ない。
もちろん有名な研究者の方々はおられるのだが、私の管見の限り、「中世」や「近代」と冠した西洋史の研究会・学会組織は存在しても、「近世」と冠した西洋史研究の組織は無いようである。
そうしたこともあって、近世史研究には二つの力学が働いている。
中世との連続を強調する向きと、近代との連続を強調する向きだ。
従来は、絶対君主制が近代の国民国家に繋がる中央集権化の必然的な過程であったという理解が強く、後者の向きが幅を利かせていた。
しかし、第二次世界大戦前後から漸次的に、中世からの封建制度や地方諸勢力の自律性に注目が集まり、従来の見方が修正されていった。
ここでは、近代との連続性を限定的に捉えようとするため、中世との連続性が対照的に強調される傾向にあった。
しかし、「近世」とは「中世」でも「近代」でもない時代である。
この数十年間の研究の蓄積で、西洋の「近世」という時代はより強固な枠組みをもって確立されようとしている。
「失われた鎖の輪」は漸く見つかるのだろうか。
ところで、私の失われたWi-Fiルーターはいつ見つかるのだろうか。
一度徹夜を経てもうそれで終わりかと思えば、再びやって来る心身の危機。
最近は人生を楽しめていない。
卒業論文の中間報告へ向けて翻訳したドイツ語文献の内容を整理し直しているが、自分の知的吸収力の低さに呆れるこの頃である。
やはりメモや書き込みは大事だ。
そんなことを今更学んでいるようではこの先が思いやられる。
ここ数日で頻尿も加速した。
トイレと研究室の往復で、一日分の半数の体力は使い果たしているかもしれない。
心の安寧が欲しい。
灼熱の中で、半狂乱の日々を過ごしている。
突破口が見えたかと思えば、側面から不意打ちを喰らわされる。
轟く砲音、飛び来る弾丸。
「軍神」から程遠い私は、点呼に遅れた行方知れずの部下を捜しに行くまでもなく、飛び来る弾に忽ち亡せてしまいそうだ。
翻訳作業は一段落したが、また別の仕事が舞い込んでいる。
そんな私の最近の楽しみは少ない。
趣味の野球観戦に関しても、贔屓球団の中日ドラゴンズがピリッとしない。
この8月がヤマだろう。
野球関連の話となると、楽しいのは元プロ野球選手である金村義明さんの野球漫談くらいだ。
毎週月曜日の楽しみは、彼の喋りを関西ローカルの地上波ラジオで聞くことである。
しかし、かつてドラゴンズに在籍していたこともあってか、若干は贔屓目にドラゴンズを見ていた金村さんも、クライマックスシリーズ出場条件であるAクラス圏内を狙えそうなチームの話を振られると、遂に中日の名を出さなくなった。
他人に夢を託すというのは実に辛いものである。
命懸けで頑張っている人間に対して心なく冷や水をかける愚者というのは、いつの世にも存在する。
その愚者の宣うことそれ自体に傾聴すべきものはあるのかもしれぬが、問題はこちらの文脈も察せぬ横柄なまでの無神経さである。
正しければ時がこれを証明する。
かつてイエス・キリストは有象無象によって磔に処されたが、後にその威光を輝かせた。
信仰は救済のための条件であるのみならず、そのもので武器となる。
受難によってもたらされた痛々しき聖痕は、正しさの証だ。
程度の低いこの土俵からは堂々と退場してしまおう。