嵐が過ぎ去ってしまうと、何だか物足りなさが感じられた。
面倒臭い面倒臭いと宣っておきながら、私は忙しさを欲しているのかもしれない。
この精神性だけを見るなら、社畜戦士にはピッタリの人材だ。
ただ、体にはガタが来ているようで、もはや生活リズムという概念が存在しない状態である。
土日に外へ出かけ、博物館や映画館、学会を巡っていた頃が遥か中世の時代に思える。
そういえば、私の専門は近世という時代である。
簡単に言えば、中世と近代の間にある中途半端な時代だ。
いわゆるアーリーモダンだ。
少なくとも日本では、ことドイツ史に関しては相対的に近世史研究が少ない。
周りに近現代史の人間は沢山居ても、近世史の人間は殆ど居ない。
もちろん有名な研究者の方々はおられるのだが、私の管見の限り、「中世」や「近代」と冠した西洋史の研究会・学会組織は存在しても、「近世」と冠した西洋史研究の組織は無いようである。
そうしたこともあって、近世史研究には二つの力学が働いている。
中世との連続を強調する向きと、近代との連続を強調する向きだ。
従来は、絶対君主制が近代の国民国家に繋がる中央集権化の必然的な過程であったという理解が強く、後者の向きが幅を利かせていた。
しかし、第二次世界大戦前後から漸次的に、中世からの封建制度や地方諸勢力の自律性に注目が集まり、従来の見方が修正されていった。
ここでは、近代との連続性を限定的に捉えようとするため、中世との連続性が対照的に強調される傾向にあった。
しかし、「近世」とは「中世」でも「近代」でもない時代である。
この数十年間の研究の蓄積で、西洋の「近世」という時代はより強固な枠組みをもって確立されようとしている。
「失われた鎖の輪」は漸く見つかるのだろうか。
ところで、私の失われたWi-Fiルーターはいつ見つかるのだろうか。
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